喧噪の表現運動 - 立命館大学Comprimido Estridentista de Manuel Maples...

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134 881 喧噪の表現運動 メキシコ・エストリデンティスモ(1921 ~ 1927 年)の相貌崎 山 政 毅 はじめに メキシコ革命(1910-1917 年)以降の歴史を基調に、イタリア生まれの女性写真家ティナ・モドッ ティ Tina Modotti (1896-1942 年)の生をあつかった作品『ティニシマ』のなかでエレナ・ポニアト ウスカは次のようなシーンを描いている。 ティナはエストリデンティスタたち、しきたりもアカデミックな画法もブルジョア趣味も馬 鹿にしていたこの若い芸術家たちと一緒にいるとき、いつもほっとするような気分を感じるの だった。彼女にとって、エストリデンティスタたちの挑発的な態度は刺激的なものだったのだ。 ぺぺ・キンタニージャ Pepe Quitanilla の兄のルイス Luis は、自分の詩集にキン・タニー ジャ Kin Taniya と署名する詩人だったが、その彼がティナに彼が主宰する「蝙 ムルシエラゴ 蝠メキシコ演劇 劇場 Teatro Murcielago de México」で役者をやらないかと依頼してきた。 マヌエル・マプレス=アルセ Manuel Maples Arce とヘルマン・リスト=アルスビデ Germán List Arzubide は、彼女がまるで「無名者たちのカフェ Café de Nadie」に集う自分たちのグルー プの一員であるかのような挨拶を送ってきた。 彼らは革新的で活発で、ウェストン[Edward Weston 1886-1958 モドッティの写真の師であ り恋人であった米国人]やティナと、新しいものの見方への関心を共有していた。ティナは、電 灯や電信線・電話線、彼らの雑誌『放射器 El Irradiador』の印刷工場、ヘルマンの詩集『人間 の歌 El canto de los hombres』、労働者の写真、梯子と水桶の写真をとってまわった [ 図1]教育省では、ディエゴ・リベラ Diego Rivera が壁画 作品「テワンテペックの水浴び」を描いていた。…(中 略)…芸術が街中に登場してきていた。誰もが一家言 もっており、それを人に知らせていた。芸術は人民に属 していた。 教育大臣のホセ・バスコンセロス José Vasconcelos 貴重品の金庫から芸術を取り出させることを決意して いた。つまり、芸術は美術館を後にし、市街はひとつの 巨大な展覧会場となり、音楽は村の白痴よろしく街中を ねりあるき窓から家のなかへと漏れ込んで来るといっ たふうに。そのとき芸術は荷車引きやトルティーヤ職人 の人生を見事に飾るものになるだろう。 共和国大統領のオブレゴン将軍は、教育のあるものたち 図1

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喧噪の表現運動

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喧噪の表現運動―メキシコ・エストリデンティスモ(1921 ~ 1927 年)の相貌―

崎 山 政 毅

はじめに

メキシコ革命(1910-1917 年)以降の歴史を基調に、イタリア生まれの女性写真家ティナ・モドッティ Tina Modotti (1896-1942 年)の生をあつかった作品『ティニシマ』のなかでエレナ・ポニアトウスカは次のようなシーンを描いている。

 ティナはエストリデンティスタたち、しきたりもアカデミックな画法もブルジョア趣味も馬鹿にしていたこの若い芸術家たちと一緒にいるとき、いつもほっとするような気分を感じるのだった。彼女にとって、エストリデンティスタたちの挑発的な態度は刺激的なものだったのだ。 ぺぺ・キンタニージャ Pepe Quitanilla の兄のルイス Luis は、自分の詩集にキン・タニージャ Kin Taniya と署名する詩人だったが、その彼がティナに彼が主宰する「蝙

ムルシエラゴ

蝠メキシコ演劇劇場 Teatro Murcielago de México」で役者をやらないかと依頼してきた。 マヌエル・マプレス=アルセ Manuel Maples Arceとヘルマン・リスト=アルスビデ Germán

List Arzubide は、彼女がまるで「無名者たちのカフェ Café de Nadie」に集う自分たちのグループの一員であるかのような挨拶を送ってきた。 彼らは革新的で活発で、ウェストン[Edward Weston 1886-1958 モドッティの写真の師であり恋人であった米国人]やティナと、新しいものの見方への関心を共有していた。ティナは、電灯や電信線・電話線、彼らの雑誌『放射器 El Irradiador』の印刷工場、ヘルマンの詩集『人間の歌 El canto de los hombres』、労働者の写真、梯子と水桶の写真をとってまわった [図 1]。 教育省では、ディエゴ・リベラ Diego Riveraが壁画作品「テワンテペックの水浴び」を描いていた。…(中略)…芸術が街中に登場してきていた。誰もが一家言もっており、それを人に知らせていた。芸術は人民に属していた。 教育大臣のホセ・バスコンセロス José Vasconcelos は貴重品の金庫から芸術を取り出させることを決意していた。つまり、芸術は美術館を後にし、市街はひとつの巨大な展覧会場となり、音楽は村の白痴よろしく街中をねりあるき窓から家のなかへと漏れ込んで来るといったふうに。そのとき芸術は荷車引きやトルティーヤ職人の人生を見事に飾るものになるだろう。 共和国大統領のオブレゴン将軍は、教育のあるものたち 図 1

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に文字が読めない人びとを教えるよう熱心に説き伏せることで非識字の状況に立ち向かおうとするバスコンセロスのたたかいを支援していた。 [Poniatowska 1992:143,146-7]

バスコンセロスが 1920 年 10 月 10 日に新たに創設された教育省のトップを勤めていたのは、アルバロ・オブレゴン体制下の 1920 年から 1924 年の間である。ことをエストリデンティスモ―喧噪

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主義0 0

とでも訳すべき名称である―にかぎれば、キンタニージャによる「蝙蝠劇場」(労働者を対象とした夜間演劇場)のじっさいの組織化がなされるのが 1923 年末から 1924 年、後述するようにエストリデンティスタたちがいったんベラクルス州のハラパに拠点を移したのが1924年だった。これらを考えあわせれば、ポニアトウスカが 1923 年 8 月 20 日の夜に設定したこのシーンは、前期エストリデンティスモの最高潮の姿をみごとに示しているだろう。ここに名前が挙がっているマプレス=アルセ(1898-1981 年)、リスト=アルスビデ(1898-1998 年)、

ルイス・キンタニージャ(1893-1978 年)らに加えて、同じく詩人のアルケレス・ベラ Arqueles Vela

(1899-1978 年、グァテマラ生)、版画家であり「都市計画家」のラモン・アルバ=デ=ラ=カナル Ramón

Alva de la Canal (1892-1985 年)および作家で労働者派の弁護士でもあったハビエル・イカサ Xavier

Icaza (1892-1969 年)などが、エストリデンティスモの主なメンバーだった。主要なヨーロッパの前衛芸術運動のメンバーと同じように、この前衛主義の表現者たちもまた、自

分たちのたまり場をつくり、みずからの主張を高らかに訴える雑誌を発行していたのである。また、先の引用に名前が記されているディエゴ・リベラとエストリデンティスタたちとは、共産主義イデオロギーをめぐってはまったく異なっていたが、革命的ナショナリズムという共通項においては、きわめて近しい間柄にあった。このような配置のもとで、エストリデンティスタたちは、活動を展開していったのだった。

1 「ラテンアメリカの未来派」?

しばしば彼らの運動は、「ラテンアメリカの未来派」と呼ばれている(たとえば米国のジョン・S・ブ

ラッシュウッド[Brushwood 1975])。たしかに、アヴァンギャルドのビラ新聞『アクトゥアル―前衛の新聞 Actual, Hoja de vanguardia 』の第 1号(1921 年 12 月、図 2)に掲載された、エストリデンティスモの最初のマニフェスト「マヌエル・マプレス=アルセのエストリデンティスモ的錠剤Comprimido Estridentista de Manuel Maples Arce」の冒頭には、マリネッティの名が「転覆的な啓示」として挙げられている。それにつづく宣言には、次のようにある。

メキシコの現在主義的前衛の名において、あらゆる公正詔書の掲示板と権利証書システムの聖別された看板が、恐怖のどん底に叩き込まれ、法によって補助された薬局と薬屋の噴出口の二十世紀にわたる期間とともに、現在主義的で等辺形的に確信をもちすぐれて革命的な、わが交換不可能なカテゴリーの勃興する頂点において、私のなかに集中している。軸からはずれた全世界のただなかでそれは、命令的・カテゴリー的に確固としたねじれた両手によって、唖然とす

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るような球形の様をみずから眺めている。わが過激主義は、知性の究極の国民投票による文字通りの投石追放から身を守るために、精練され、ずたずたにされている。蓄音機の激情と短く断ち切られた叫びのなかで、直径に沿って爆発する「いくつものレコードプレイヤー」のほかそこには例外はない。

お イダルゴ神父を 殺せお 打倒 聖ラファエル 聖あ ラザロ――――――――た 敵対せよ―――――――り 貼り紙を禁止せよ―――

[Schneider 1985:42]

このスローガンでは、メキシコ独立の口火を切ったイダルゴ神父を攻撃している。聖ラファエロと聖ラザロへの言及は、現代の美という唯一神の御子によって復活をとげた(つまり聖ラザロにとってかわる)存在であるエストリデンティスタが、ポルフィリオ・ディアス独裁の保護下で量産され革命後にも延命していた伝統的絵画の「聖人」ラファエロへの、すなわち芸術にかかわるあらゆる支配的伝統への、憎悪を訴えていると読みとれる。これはたしかに、メキシコにおける芸術の革命の狼煙であり、革命の芸術への取り組みの開始を告げる「政治」にほかならなかった。そして呼びかけの対象を考えてみよう。ここではまだ明示的ではないが、エストリデンティスモの「芸術の政治」にかかわる宣言をはじめとするテクストの展開においては、志向性を共有した芸術家である「われわれ」と集合的な「君たち」とが設定されているスタイルが存在することが徐々にかたちをとっていく。この点に、マリネッティの諸宣言での変換をもたらすコミュニケーションが想定された「われわれ‐君たち」という図式的枠組みが類比されたさいに、先の「ラテンアメリ

図 2

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カの未来派」なる性格規定が認められるというわけである。ただし気をつけておかなければならないのは、この「われわれ」も「君たち」も、男性に限られているという点である。それは女性がどのように表現されていたのかを考えれば、あぶりだしの絵のように見えてくる。たとえば、「無名者たちのカフェ」に貼り出された、次の「値段表」がその好例だろう。

以前 今日朝の高貴なる女性 …………………………… $150.00 $75.00正午の素朴な女性 …………………………… $135.00 $65.00午後の複雑な女性 …………………………… $200.00 $99.99喫茶のためのデリケートな女性 …………… $140.00 $70.00夜会のための着飾った女性 ………………… $290.00 $145.00スポーツのための活発な女性 ……………… $120.00 $60.00やもめのための乳母用女性 ………………… $300.00 $150.00旅行用の見栄えのする女性 ………………… $500.00 $250.00劇場から去り行く女性 ……………………… $9,000.00 $4,000.00街角の女性 …………………………………… $80.00 $40.00ひとの評価に「痛めつけられた」女性 …… $60.00 $30.00近頃の女性 …………………………………… $25.00 $12.50エストリデンティスタ女性 ………………… $10,000.00 $5,000.00

機会を逃すな0 0 0 0 0 0

!  あなたのモデルを選べ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

![List Arzubide 1986[1928]: 68]

この「ブルジョア趣味にけちをつけた」表付けをエストリデンティスタたちはさぞかし面白がったことだろう。だが、こうした態度は、エストリデンティスモに少なくとも親近感を覚えたティナ・モドッティのような女性をも排除していく原因となったのである。この例から明らかなように、彼らの傾向性は男性性を中心にすえるものだった。より広い文脈においてみれば、近代共和制における国民=市民=兵士=男性というホモソーシャルな連関は、メキシコにおける変革運動においてもヘゲモニックであったといえよう。あるいは、すでに西欧で確立したかたちになっていた「近代」という覇権的で世界的な力の展開において「遅れて出発した」メキシコだからこそ、ますますその傾向性は強烈なものとして表出したのかもしれない。エストリデンティスモが批判したメキシコの「過去」、とくにポルフィリオ・ディアス独裁のもとでの「白いヨーロッパ」を唯一のモデルとする「近代化」は、彼らの傾向性をおしすすめるエンジン以外の何ものでもなかった。さて、未来派的なモーメントとりわけマリネッティによる概念的な芸術の措定は、マージョリー・パーロフが指摘するように、モダニズムのなかに登場してきた後続のアヴァンギャルド芸術運動に多くの影響を与えた「美の政治化」であり、「ある種の叙情的演劇への政治の転換」でもある[Perlof

1986:84, 87-8]。このような未来派的モーメントは、事実、エストリデンティスモにも継承されてい

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る。だが、それはエストリデンティスモの特質や本質だったのか? そうではなく、このモーメントはエストリデンティスモの一属性でしかない。そしてまた、ヴィッキー・ウンルーが述べているとおり、ラテンアメリカにおけるアヴァンギャルドのマニフェストは、ひとしくより複雑な様相をとっている[Unruh 1994:35-6]。それはしばしば、「われわれ‐君たち」の関係性をアクチュアルに打ち立てるにあたって、敵対的な打倒されるべき「やつら」、あるいは無視を決め込むか軽蔑するしかない「やつら」が第三項として設定されてもいるからである。そうした「やつら」の設定が不可避であった歴史的根拠としては、1920 年代ラテンアメリカの(ポ

ストコロニアル)状況が、ヨーロッパのごとき都市性をラテンアメリカに実現するための諸条件をきわめて限定的なものにしていたことが、共通項としてあげられるだろう。さらにメキシコの具体的な文脈に沿っては、1910 年代のメキシコ革命が、最終的には簒奪され制度化されてしまったにせよ、1920 年代に残していた余熱にほかならない政治的効果は、労働者と農民の存在の重視という点にあった。そして後者すなわち農民が前衛主義によって受け取られたイメージが問題となる。貧しい農民たちは土着的な本質を体現するものとして、革命にもかかわらず生き残った支配者たちや革命によって新たに生み出した支配層の軛のもとで苛酷な社会的条件にあえぐ「国民の不可欠な一部」として、表現においても政治的な姿勢においても時代のラディカルな最先端であろうとした若き芸術家たちに受け取られた。直接に政治的なこうした事情に、芸術と美の判定の「支配層」が重ねられて、エストリデンティスモは、具体的な社会闘争にかかわる決定的な質を有した、複合的な新たな芸術表現の探究運動となっているのである。

2 エストリデンティスモの性格規定

そうであるならば、エストリデンティスモにしばしば与えられてきた「ラテンアメリカの未来派」という規定は、批判的に再考されるべきだろう。とはいえ主要なエストリデンティスタたちが彼らの同時代にヨーロッパで起きていた事態、とりわけ表現運動の動向への強烈な関心をもっていたことはまぎれもない事実である。だが、エストリデンティスモは、イタリア未来派の、ひいてはヨーロッパにおける新たな動きの、たんなる模倣や移植ではないし、ヨーロッパにおける諸運動の副産物や派生物でもない [García

Canclini: 42-47]。「未来派」なるカテゴリーでエストリデンティスモを象ってしまわないような分析、つまりある種の西欧中心主義あるいはオクシデンタリズムに陥らないような分析が必要なのである。その一方で、この芸術=政治の運動を、メキシコという場に閉じ込めるわけにもいかない。ヨーロッパの本質化にもとづく切断を前提しないかぎり可能にならない単純な反措定としての、真空の中に自立した本質主義的「メキシコ」の設定は、裏返しの西欧中心主義でありオクシデンタリズムの一変種にすぎないからである。エストリデンティスモの固有性・独自性を見出すために求められているのは、固有性・独自性を

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まさしくそうしたものとして、そして同時に民衆的・国民的なものとして創り出そうとした攻勢的・能動的な「擬態」[Bhabha 1994: Ch. 4 ]を適正に読み解くことである。それは静態的なものではない。さしあたっては「トランスアトランティック」という形容詞を、その接頭辞が含意する「動き」の様相のもとでエストリデンティスモに差し向け、「擬態」を動態的な運動としてとらえることが、問題構成の基礎をなすように思う。ここで、マプレス=アルセによるエストリデンティスモの最初のマニフェストでの記述を引いておこう。

……Ⅲ .-「走っている自動車は、サモトラケのニケ像よりも美しい」。イタリアの前衛主義者マリネッティによる、…この折衷的な肯定に、私は著述機械(タイプライター)のための情熱を、そして経済的警告の文学のための熱狂の極にあるわが愛を並置する。……Ⅴ .-ショパンを電気椅子に! わたしはここで洗浄業者的・衛生学者的に断言する。すでに反月理学者的な未来派たちは、月の光明面の謀殺を活版印字で求め、スペインのウルトライスタたちは、ラファエル・カンシーノス・アセンス[Cansinos Assens, Rafael 1898-1964.スペインの作家・詩人・批評家。「1914 年世代」の中心メンバーでウルトライスモの雑誌『セルバンテス』を創刊し、ビセンテ・ウィドブロの友人として、またホルヘ・ルイス・ボルヘスの「師」としてラテンアメリカの詩学に対しても多面にわたる影響力をもった―崎山]の声で、新聞記事や状況転覆をうったえるビラに激しい煽動にみちた辛口の文書を書いている。彼らとともに、ラディカル派の有効な方法を用いることは、電信的焦眉性を有している。ショパンを電気椅子に!(M.M.A.の商標)とは驚異にみちた準備なのである。それは 24 時間以内に腐った文学のあらゆる種子にとどめをさしたものであるし、その使用は最高に快く有益なものなのだ。それを使用するまえにきちんと騒動をおこせ。いくつもの「夜」をすごした憂鬱趣味に対するわれわれの罪を永続させよ。ガソリンの貴族政治を時を同じくして宣言せよ。脱出管の紫煙は近代とダイナミズムのにおいがするが、それは現在主義的に洗練されたわれわれの相関物のもつ、崇拝に値する才能の感情的価値と同等の価値をもっている。Ⅶ .-エストリデンティスモは、もはや創造主義・ダダイズム・発作主義・表現主義・綜合主義・心象主義・シュプレマティズム・キュビスム・オルフェ主義、エトセトラエトセトラの、つまり多少とも理論化された効率的な「諸イズム」に属する何ものでもない。私たちが作っているのは、融和的なまがいものの欲望―つまり混淆主義―のためでなく、美的かつ精神の緊急性がもとめる一個の容赦なき確信のための、私たちの輝ける近代の過激な昂揚の最高水準において開花させられたすべての傾向の、純化された精髄たるジンテーゼなのである。……Ⅹ .-みずからをコスモポリタンになさしめよ。国民的芸術の伝統儀礼じみた取り決めにとどまることは、もはや不可能だ。ニュースは電報によって表現されている。摩天楼については、それらの驚異的な摩天楼は全世界から口を極めてののしられているが、ヒトコブラクダのように現実場慣れしている。電気エレベーターは、摩天楼の筋肉組織のあいだを揺れ動いている。48階。1,2,3,4、エトセトラ。…

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……Ⅻ .-エストリデンティスモは、追憶ではいっさいない。未来派でもいっさいない。そこにおいて、現在の瞬間のすばらしい頂点において、全世界が静謐にみちて驚くばかりに照らし出されている。正午の瞬間に天頂へと向かう、つねに自分自身でありながらつねに革新されていく、超越的な「私」のなかで感覚的に電化された、まぎれもなく唯一のその情動の奇跡において、監視されている。…[Schneider 1985: 42-46]

ここからは、未来派の重力圏を超えて、「経済的な要素」さえはらんだエクリチュールの要請がうかがえる。そして疑似弁証法的な自由連想にもとづくレトリックで描かれた、国境を越えて知らされてきた「近代」を達成しようという、ただひたすらに前進する「止揚」作業が設定されている。要するに、エストリデンティスモは、歴史的・社会的・文化的そして政治的な関係性にほかならないヨーロッパ‐アメリカの「回路」を介して未来派的な装いのもとに登場しながらも、それを別の編成物に高め前進することで、未来派(=ヨーロッパ)との間にみずからのイニシアティブに貫かれた「距離」を置こうとしているのである。この自覚的な運動傾向性こそが、「擬態」の核心部だといえる。そして、ルイス・マリオ・シュナイダーがいみじくも述べたように、彼らの意図においては、きわめて意識的な「戦略」としての文学が想定されていたのである [Schneider 1970]。とはいえ、ここでつけくわえておかなければならないのは、エストリデンティスモが「硬い」イデオロギーに終始つらぬかれた運動ではなかったという事実である。マプレス=アルセによる激烈な「過去」の批判から開始されたこの運動は、新たなメンバーの参入と自分たちの表現への反応をその度ごとに確認しながら変容をとげていった [Flores 2003: 5-7]。そのことを示す、いくつかの事例を挙げておこう。そのひとつは、マプレス=アルセの「ショパンを電気椅子に!」といった単純だが過激なスローガンを除いては新奇で難解な文言にあふれている最初の宣言から、事実としては「第二宣言」となる集団的な「エストリデンティスモ宣言」(1923 年 1 月 1 日)の「わかりやすさ」への転換である。「エストリデンティスモ宣言」の「締め」の部分にはこうある。

われわれは宣言する―唯一の真実としての、エストリデンティスモの真実を。エストリデンティスモを防衛するということは、われわれの知的復讐を防衛することである。われわれとともにあろうとしない者たちは、ヒメコンドルに肉をつつかれるはめになるだろう。エストリデンティスモは全世界を仕入れる百貨店である。エストリデンティスタであることは人間(男性)であるということなのだ。意気地なしのタマなし野郎だけが、われわれとともにあろうとしないだろう。大仰な身振りのあいさつで、われわれは日の光を消す。新年おめでとう

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七面鳥の煮込み料理0 0 0 0 0 0 0 0 0

、万歳0 0

! [Mendonça Teles & Müller-Bergh 2000: 112]

マプレス=アルセの表現と比較にならないほど主張がわかりやすいものに変わっていることが一目瞭然である。たしかに、聴衆=「君たち」を呼びかけ主体=「われわれ」との密接な関係につなぎとめつづけようというのであれば、いかにラディカルな批判であっても難解さに終始するわけに

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はいかない。このように運動のうえでの組織論的な目的がすなおに受け取られていることは注目に値するだろう。なぜなら、ほとんどのアヴァンギャルド表現運動は、それらの初期に宣言された「主義」に対してかたくななまでに忠実に展開をとげたからであり、そうした事情とくらべるとエストリデンティスモの融通無碍さ

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はきわめて特異なものだからである。

3 ラジオへの愛と幾何学都市:聴衆の構成の試み

しかしそうはいっても、彼らにとっての未来派という起点がおよぼす影響は強烈だった。とくにそれは近代コミュニケーション機械制への「偏愛」、言い換えれば、新たに登場してきた国民的でありうるメディア技術―ラジオ放送―に対する熱狂に端的に表現されている。たとえばキン・タニージャことルイス・キンタニージャは、1924 年にその名もまさしく『ラジオ:3つのメッセージでの無線詩 Radio : poema inalámbrico en trece mensajes』という詩集を上梓しているほどだ。この詩集にはラジオ放送の語りと雑音や放送の中断を言葉の響きとタイポグラフィで模した三編の詩が載せられている [Kyn Taniya(Quintanilla)1924]。さて、メキシコの商業的

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ラジオ放送は、1920 年に軍医のアドルフォ・エンリケ・ゴメス=フェルナンデス Gómez Fernández, Adolfo Enrique とその弟のペドロによって、首都中心部アラメダ公園に隣接するイデアル劇場の一室を借りて、正式な名称なしのままに開始された。しかし彼らの友人たちが「ゴメス先生のラジオ局」と呼んでいたスタジオは、政権に批判的なプログラムを流したことで 1922 年に閉鎖されてしまう。だがこの弾圧はオブレゴン政権がラジオというメディアのもつ力を正しく認識していたこともまた意味している。じっさい、1921 年の陸軍記念日には、陸軍軍楽隊のメンバーを乗せたファーマン社製の飛行機が首都の低空でポピュラーな民謡を演奏してそれをラジオで放送する実験を、大統領みずからが参加しておこなってもいる。権力のお墨付きをえたこのメディアは、首都において見る見るうちに広がり、1923 年末までには、メキシコ・シティの多くの家庭に、耳障りな雑音を発するラジオという居候がいすわるようになった [Getino 1984: 25-30]。こうした事情のもとで『エル・ウニベルサル』紙のような大新聞社も商業放送に乗り出した。同社の週刊新聞『絵入りエル・ウニベルサル』編集部が米国製高出力トランスミッター(50 ワット)を購入し、この技術的支援のもとで新たに創設されたラジオ会社「カーサ・デル・ラディオ」がその記念すべき第 1回目のプログラムを流すこととなる。 1923 年 5 月 8 日の午後 8時であった。『エル・ウニベルサル』社主のカルロス・ノリエガと「カーサ・デル・ラディオ」社主のラウル・アスカラーガの臨席のもと、スペインのクラシック・ギター奏者アンドレス・セゴビア、メキシコの大作曲家マヌエル・M・ポンセ、同じくメキシコのピアニストであるマヌエル・バラハスが、いくつかのクラシック曲を演奏した。それにつづいて、有名な歌手のセリア・モンタルバンが最新のナンバーをいくつか歌った後に登場したのが、「詩の最高司祭」マヌエル・マプレス=アルセであった。彼は、「ラジオ放送礼賛 Homenaje a Radiofonía」を朗々と詠じたが、抽象的なレトリックにみちたその詩のポイントは、ある種の反人間主義、あるいは科学技術への狂信的盲愛というべき、近代

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機械制の讃歌である。後のマプレス=アルセ自身の回想によれば、彼は詩の朗読をつうじて、バラバラの受信者をひとつの集合的な聴衆、国民としての聴衆に統合的に組織することを意図していたのだった [Monahan et al. 1997:40-45 ]。ラジオにかんする関心は、ひとりマプレス=アルセのものではなく、キンタニージャやベラの詩にも意識的に表現されている。そして、そこに表現された意図がもっていたパラダイムは、鋭角と直線の交錯とにみちた機械制的な感覚を重視する意識的な計画志向につらぬかれていた。その志向性が、具体的なものとしてあらわれたのが、都市をめぐる表現においてである。南方にメキシコの最高峰オリサバ山を望む、坂の都市ハラパが、エストリデンティスタたちの空間、リスト=アルスビデ名づけるところの「喧噪都市 Estridentópolis」として「発見」されたのは、1924 年のことであった(図 3)。オブレゴン政権の終焉と「使途不明金」の責任をとらされたバスコンセロスの失脚によってメキシコ・シティでの彼らの展開を困難なものになったことが、メキシコ・シティを捨てた第一の理由だろう。だが、なぜハラパだったのか。ベラクルス州の州都であるこの都市が、エストリデンティスモにとっての「都」となった理由としては、主要メンバーのひとりであるハビエル・イカサの出身地であったこと、とくに彼がハラパの名家の出であり労働者派の弁護士として名を売っていたこと、そして当時のベラクルス州政府中枢部がイカサの「友人」たちによって占められていたことの 3点が挙げられる。イカサがどのような人物だったかについては、カルロス・フエンテスの歴史小説『ラウラ・ディアスとの歳月』中の描写を見てみよう。

彼は未来派、エストリデンティスタ、ダダイストと呼ばれたが、そのどの名称もベラクルスでは耳にしたひとはそれまでいなかった。それらの名前は、イカサが、まるで自分の信用証明書をすぐにでもたしかなものにしようとしているかのように、舗装されていない道をイソッタ=フラシーニ社製の黄色のコンヴァーティブル車で走り回りながら、ほとんど無礼といってもよい一陣の風をともなって、この田舎の都市に紹介したものだった。ハビエル・イカサはアナ・グイード嬢の手をとって、彼女の両親が不審をあらわにしていたとおりに、ある日曜日、ミサを執り行っている最中の教会の階段を、大馬力のイタリア車で上っていったのだった。この若く溌剌とした弁護士をのせ、あらんかぎりの馬力をふりしぼって、気違いじみた見かけの車が発するエンジンの咆哮は、階段を上っていく。そして、階段が終り前庭がはじまるギリギリのところで、彼はどうにか車を停め、僕はアナと結婚するためにやってきた、何物をもってしても、何人たりとも僕をおしとどめるものはないぞ、と大声で宣言した。[Fuentes 1999:.117-8]

イカサの親戚であり、少女時代にイカサに可愛がられたマリア・フェルナンデス夫人の証言(2004年 9 月 13 日午後にハラパ市・フェルナンデス邸にてインタヴュー)では、フエンテスの描くイカサは、彼女の記憶にとどめられた「ハビエル兄さん」そのものであるとのことである。こうしたマッチョな

図 3

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ラディカルさを信条とした派手な行動にもかかわらず、イカサはハラパでの影響力を慎重にのばしていった。そして、1924 年にはすでに州政府中枢部とのあいだにイカサは強力なコネクションを有していた。エストリデンティスタたちにとってよい知らせとなったのは、そうした彼の「政治的影響力」によって、ベラクルス州印刷局が彼らの雑誌『地平線―現代的活動の月刊誌 El

Horizonte, Revista mensual de actividad contemporánea 』を出版してくれるという確約をとんとん拍子でとりつけることができたことである。この雑誌は、リスト=アルスビデが主筆をつとめ、第 1号が 1926 年 4 月に発行された(その後1927 年まで数号が刊行されたことは知られているが、何号が終刊

なのか、それがいつ発行されたのか(あるいは発行できなかったの

か?)はわかっていない)。『アクトゥアル』(マプレス=アルセ主筆、1921 年 12 月第 1号~ 1922 年 7 月第 3号)にしても、それに続いた『放射器―前衛雑誌 El Irradiador. Revista de vanguardia 』(マプレス=アルセとフェルミン・レブエルタスの共同編集、1923 年 9 月(?)第 1号~同年 11 月第 3号)にしても、3号目を出したところで経済的に息切れしてしまう、いわゆる「カストリ雑誌」だったこともあり、この確約が彼らにとって啓示のように思われたとしても不思議ではないだろう。そしてともかくも、このような表現活動の経済的基盤と具体的な伝達手段の確立が、ハラパにとどまることの積極的な推進力となったことは想像に難くない。さて、ハラパが「喧噪都市」、エストリデンティスモの都市と名づけられたことはすでに述べた。地方の主要都市とはいえ、古さの方が目立つハラパにこのような名づけをしたということは何を意味しているのだろうか。その問題を考える糸口として、マプレス=アルセが 1924 年に上梓した詩集『大都会 Vrbe 』(図 4、

ラテン語風に Uを Vに変えてある)を見てみよう。この詩集には、「5篇のボルシェヴィキ的超‐詩 Super-poema bolchevique en 5 cantos」という

副題がつけられており、「メキシコの労働者たちへ」と、詩が献じられる相手が明記されている。その第 1篇は次のようにはじめられている。

私はここに詩をつくる野蛮で多数の心の新たなる都市にむけて。 おお、すべてが濃密な都市よ ケーブルと努力にみち、 響かせるはすべて モーターと大胆さの音。

図 4

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時を同じくした爆発 新しき理論の、 それはわずかに超えて。特別な平面 それはホイットマンとトゥルネルの そしてわずかにそれを超えた マプレス=アルセの。ロシアの肺臓はわれらに吹きかける社会革命の風を。文学的ブルジョアたちが襲いかかる何も学びはせずにかの新たな美を世紀の汗にまみれたそれを、……… そしてセクシュアルな熱

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いくつもの工場の0 0 0 0 0 0 0 0

。………

突然に、おお閃光が君たちの眼を下卑た緑に染める。時の世間知らずな鎧戸のもと赤き思想の大隊が通りすぎる。ヤンキーの音楽の人食いロマンティシズムは竿に巣をかけている。おおインターナショナルな都市よ、どこまではるかに遠き子午線を大西洋を越えるかのものは断ち切ったのか?………[Maples Arce 1924: 13-5]

一見この詩はロシア革命を称賛しているようにみえる。ところがよく読めば分かるように、「下卑た緑」すなわち下品で未熟な色が労働者にめくらましをくらわせ、「世間知らずの時」のなかで彼らを「赤い大隊」へと組織するのである。つまりこの詩は共産主義を賞賛しているような見せかけのもとで、皮肉なまなざしで事態をとらえているのだ。この詩集の表紙にはアルバ=デ=ラ=カナルの手による直線的な高層ビルの版画が印刷されている。これは後に鋭角的な直線が交錯する都市像へと展開するが、即自的なイメージとしての「大都会」ではけっしてない。なぜならば、完全に意識的に計画された幾何学的空間操作―それは聴衆

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をいれる容器を使う美の政治的技術でもある―が、彼らの構想の根幹に位置づけられているからである。アルバ=デ=ラ=カナルは都市建築に関する彼のイメージを次のように語っている。

家具の設計やカンバスやタペストリーの織目におけるのと同様に家屋の建築術において、芸術の前衛は、枠線や量感の大いなる平明さによって本質的に特徴づけられる装飾技法を生み出してきた。かかる平明さは、華麗な幾何学的可塑性のひとつの総体をもたらしつつ、近代人の興奮させられた神経をなだめるために用いられるものである。

[Alva de la Canal 1985[1926]: 7]

しかし彼の版画のイメージとは異なってハラパの古き街並みには今なお摩天楼の姿はない。首都メキシコ・シティでさえ、摩天楼とどうにか呼びうる 11 階建ての「ラ・ナシオン」ビルが建ったのは 1930 年代に入ってのことである。それでは何がハラパをして「喧噪都市」と呼ばせたのか?まずは政治的文脈における条件を考えてみたい。当時ハラパは、ベラクルス州における労働者・農民の諸闘争のセンターであった。1919 年 11 月には、広範なリベラルの結集によって地域労働者組織ができ、これはすぐ後にベラクルス地域共産主義者組織(Local Comunista de Veracruz)に転じた。1923 年 3 月 23 日には、地域の共産主義的な農民運動活動家を軸とした人びとの呼びかけによって、ベラクルス州農業共同体同盟(Liga de Comunidades Agrarias del Estado de Veracruza)が結成された。同年 8月には、ベラクルス港ではたらく電機関連労働者のストライキがはじまっている [de Neymet

1981:16-39]。まさしくうってつけの「聴衆」となるべき人びとがハラパには存在している! その人びとは今のところめくらましにあって共産主義に染まっているものの、革命的ナショナリズムのもとで国民的聴衆に転じ集合的な「君たち」として構成されうる潜在可能性を有している…。これが「ボルシェヴィキ的超‐詩」を生みだし、エストリデンティスタたちに積極的な介入を構想せしめた前提条件であったと思われる。上記のような人びとの存在はたしかに肯定的側面ではある。しかしラディカルな闘争がたたかわれているということは、社会的矛盾の集中と噴出も意味している。そうした矛盾の実体的な原因、つまり古くからの支配層―イカサのような反逆者を生み出したにせよ、不変のように見える名家の群れ―が、変化を認めてこなかった古い都市が、ハラパにほかならなかった。こうした条件は、うまく(つまりは操作的に)労働者・農民を一体の聴衆としてまとめあげ自らの

支持基盤へと転化させられれば、都市そのものをまったく白紙の状態からあらためて建設しうる力となる。そのようにエストリデンティスタたちには思われたのである [List Arzubide 1986[1928]:30-32]。つまり、エストリデンティスモに結集させた

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民衆の力をもとにまず破壊をおこなった後に、新たに自分たちの思うままに計画的建設を行なえる社会空間として、彼らはハラパを受け取ったのである。しかし妄想にほどちかいその期待と希望は、聴衆となるべき

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人びと自身によってすぐさま打ち砕かれる。労働者や農民は、国民を求め革命を呼号するだけの口吻でしかないアイディアやその表現ではなく、また、自分たちを使い勝手のよい対象としてあつかうだけの操作主義や計画を求めてはいなかった。彼らは自分たちが大切にしている「伝統」や「土着」と密接に結びついた、自分たちを主体として登場させる、具体的で物質性をもったラディカリズムを求めていたのである。しかし

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エストリデンティスタたちは、彼ら自身でしかない「われわれ」と未来のヴィジョンにすぎない「君たち」との間、すなわち彼らと具体的な労働者・農民との間によこたわる齟齬を見ようとはしなかった。これがエストリデンティスモの失敗を運命づけたのである。その彼らの失敗が行き着いたのが、イカサによる『拡声器 1926:メキシコ的言説 Magnavoz 1926: Discurso Mexicano 』プロジェクトであった。

4 1926 年の拡声器プロジェクト

演劇的パフォーマンスのシナリオという形式をとったイカサの『拡声器 1926』は、危機を深めながらもどうにか維持されていたベラクルス政府の支援のもと、州印刷局によって 1926 年 12 月 15 日に 1000 部という大部数の印刷が終り、出版・配付される予定であった。表紙には、バスコンセロスのもとで教育省副大臣をつとめた「メキシコ人類学の父」マヌエル・ガミオのテオティワカン遺跡発掘の結果 [García Mora 1988: Ch. 1] に想を得たのか、サボテンに囲まれた(つまりアステカをさす)「太陽のピラミッド」様の建造物の頂上にうなだれて立ちつくす、あるいは静かに拡声器に耳を傾けながら立っている、右手にステッキをもった農民風の男の木版画(アルバ=デ=ラ=カナルの作品、図 5)が載せられている。そしてピラミッド正面の遠景には、潜望鏡型の拡声器の部品のごとき噴煙を上げている、ポポカテペトゥル火山と思われる円錐形をした火山がおかれている。国民の「歴史的な起源」として解釈され「文明の基盤」としてあつかわれるアステカのピラミッド、拡声器の一部をなすポポカテペトゥル、頂上に立つ「典型的なメキシコの民衆」(男性)。これは後に述べるように、作者イカサが最終的にねらった場面のエッセンスである。表紙から順々にページを繰って読み進めようとする「好ましい読者」は、必ずこの版画も見るだろう。彼らはパフォーマンスの「外部」に措かれた潜在的聴衆でもある。つまりパフォーマンスの場にいなくても、エストリデンティスタにとっての「君たち」として、パフォーマンスがじつにわかりやすい記号連関のメッセージを版画をつうじて受け取るからだ。もちろんそこにはパフォーマンスが必ず成功裡に終わるという根拠なき確信が前提されている。パフォーマンスに参加した聴衆はエストリデンティスモの期待するような結果へと導かれるはずだという「確信」である。そうであるならば、残るはパフォーマンスの場に居合わせない人びとということになるだろう。こうした見取り図によってエストリデンティスタたちは、革命的ナショナリズムのもとで国民的聴衆を構成しようとする意図を実現しようとしたのであった。ところで、ピラミッドの頂上にたたずむ男を、ステッキとそのシルエットから、ディエゴ・リベラと同定する見解がある [Brushwood n.d. (1981):40]。おそらくこの見解は正しいだろうが、それと同時に、この男性像は集合的国民の表象で 図 5

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もあると理解するべきではないか。さて、このテクストがパフォーマンスのシナリオだとすでに述べた。なぜパフォーマンスなのか。それは、「前口上」の部分でイカサがつぎのように宣言していることにも表われている。

 さまざまな潮流がメキシコを自らのものにしようとしている。それらすべてが自分の思うままに仕切ることを切望している。4つの主要な潮流が言い争っている。ひとつは神秘主義的で理想主義的な潮流であり、おそらくもっとも奥深いものである。別のひとつは保守派の実務的なものである。この潮流はメキシコはアルゼンチンの例にならうべきだと考えている。勝利を謳う若き諸大国のパノラマのような眩惑を思い起こしているのだ。また別の潮流はメキシコで共産主義のあらたな一例を実現することを欲している。ロシアの経験をアメリカでくりかえすことを企んでいるのである。そしてさらに別のものは、はっきりとしたナショナリズムの潮流で、もっとも強力なものとなるだろう。 この 4つの潮流についてわたしは語ろう。この 4つに対して、それらを茶番劇の技法―同時代の変転を表現するためにあまりにしばしば借りられる技法だが―をもちいて、一種演劇的な形式で表現してみたい。[Icaza 1926:16-7]

「演劇形式」の表現はパフォーマンスのシナリオにあたる「テクスト」部の冒頭からはじまり随所に書き込まれている。ちなみに、「テクスト」部は次のように始まっている。

 メキシコは立ち直る。メキシコは組織化をもとめている。節約をしている。負債を払っている。勝者たちは断言する。人びとは働き始める。 地平線に、太陽があらわれ平和の光を放つ。反乱以前に、有機的な平和を誰かがすでに語っていた。資本は、活気をとりもどし、あらたな投資をおこなう。社会改革以前のだらしのなさは、改革に慣れ、適応している。労働はその征服を確固たるものにしようとしている。

 しかしメキシコは学んでいない、メキシコは思考をめぐらせていない。[ibid.: 23]

新たなはじまりと不十分性。すでにメキシコは主体たらんとしているのに、さまざまな問題がなおもメキシコをおしとどめようとしている。そのようにこのテクストは呼びかけを始めるのである。それゆえまずなされなければならないのは、メキシコを駄目なままにおしとどめる諸力に対する批判である。それはこの後も、「選挙。民衆は投票にいかない」[ibid.: 26]、「誰も注意を払わない」[ibid.:

30]といった言明が、変革されるべきメキシコの現状への批判としてくりかえされることに素直に表現されているだろう。だが、それらはまさに演劇シナリオの「ト書き」に類比されるものとして設定されている。ここで、エストリデンティスタの演劇への取組みをふりかえっておこう。すでに述べたように、1924 年にはルイス・キンタニージャによって、メキシコ民衆の文化生活の向上を目的とした「蝙蝠メキシコ劇場」が組織されていた。蝙蝠とこの劇場が名付けられたのは、聴衆として見込んだ人びとが昼間はたらいている労働者であったためである。本稿冒頭にふれたティナ・モドッティも女優として出演した「蝙蝠劇場」は、けっして多いとはいえないものの「それな

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り」の観客をつかまえていた。だが、このプロジェクトはハラパへの移動によって潰えてしまった。首都からの「亡命」によっていったん潰えてしまった民衆啓蒙のための演劇的プロジェクト―それこそがエストリデンティスタたちにおいては国民的聴衆の構成だった―の再開が、『拡声器1926』であったと考えることができる。つけくわえれば、「声の交響曲」的な構成がこのテクストでなされていることは明らかである。ラテンアメリカが交響曲の比喩で語られることは、ホイットマン的な表現(「私はアメリカが歌うのを聞いた」)や、1920 年代ペルーの思想家マリアテギの友ウォルドー・フランクの「アメリカの再発見」(『アマウタ』誌第 3巻第 11-13 号)のようなリアリズム批評のテクストでの「複数の声の交響曲」といった類には見られるものの [Frank 1928: 2]、アヴァンギャルドのテクストでは珍しい。では、『拡声器1926』の構成が「交響曲」的なものになっているのはなぜか。それはエストリデンティスモの第 2マニフェストにおける、以下の言明に相応しているのではないかと思われる。

その 4:現代的精神の必然性の正当化。ガブリエリート・サンチェス・ゲレロが述べているように、詩が真実をかたる詩であれということは、糊引きされた幼稚さのなせる精神的キャンデーにとっては、馬鹿げた話ではない。絵画が真実を描く絵画であれ、とすることもまた同様である。そうではなく、詩は、オーケストラのごとく体系化された平等主義的なイメージによる、さまざまなイデオロギー的現象の連続的な解明である。そして絵画は、支配的な色彩重視の画家たちの水準によって縦横二つの幅に還元された、三次元的な静的現象の解釈なのである。[Osorio 1988:125]

この論点は、「確認せよ」という呼びかけのもとにおかれているが、呼びかけの主体であり、客体でもあるのは、「君たち」であるような「われわれ」にほかならない。そうした集合的主体によって確認されるのは何だろうか。それは、詩―『拡声器 1926』における「言説」もまた拡張された詩としてとらえられる―に対して、「オーケストラのごとく体系化された平等主義」が生み出す、新生メキシコにふさわしい交響曲のような集団性と複合性を基盤とするイデオロギー批判の機能を与える作業ととらえられる。ところで、このテクストでは副題にあるように、メキシコの/メキシコについての諸言説が実際の声の拡声器をつうじた再現によって発されることになっている。裏表紙を飾る版画に巨大なラッパ型拡声器が描かれていたことを思い起こせば、ここでもまた当時の最新技術の美的・政治的な使用が計画されていたわけである。さて、テクストが予定した声は、先の引用に述べられているように、4つある。その第一のものは、ホセ・バスコンセロスのものであり、ポポカテペトゥルの噴火口に備え付けられた拡声器から、「宇宙的人種」へと向かうメキシコ人の未来という、このテクストと同年に出版されたバスコンセロスの著書『宇宙的人種 La raza cósmica 』につながる、混血人種がすべてを凌駕するという神秘論的理想主義の一節が発せられる [Icaza 1926: 33-34;]。つづいて第二の声は、イシュトラクシワトル火山の拡声器から発せられる、「もっともポピュラーなイタリア人ジャーナリスト」とされているバルツィーニなる男のものである [ibid.:35]。彼は「メキシコ人よ、アルゼンチン、ヤンキー、チリに学べ。ブラジルに学べ…。出稼ぎ移民だ。流入移民だ。植民だ。金だ。道路だ。鉄道だ。銀行だ。…」と「近代化」を呼号する [Icaza 1926: 36]。

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第三の声は、メキシコの最高地点であるオリサバ山の山頂の拡声器から発せられる。労働歌「インターナショナル」の歌声が流れるなかで、レーニンは「社会主義の福音を引用する。老マルクスの『資本論』を繰り返す」[ibid.:37] のである。ここでのレーニンは Lenine とフランス語表記

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になっており、その前後にロマン・ロランとアルフォンソ・レイエスが配置されている。このことは、エストリデンティスモにとって排撃するべき「同時代ヨーロッパ」を彼らに代表させるような構成を目論んだのではないかと思われる。そして、これらの声に対しては、「科学者たち[ポルフィリオ・ディアス独裁の実証主義的傾向を支えた]の合唱」「破廉恥なアメリカ人学生たち」「一般人たちの合唱」が、無視し、嘲笑し、あくびをし、肩をすくめるといった反応を何度もかえす。とくに「一般人たちの合唱」が重要である。なぜなら、この「一般人たち」こそが、イカサらが演劇空間の声を介して国民としての主体化をもたらそうとした人びと、すなわち「君たち」だったからである。そのため、「一般人たちの合唱」はイカサが重視し聴衆=国民のために構想した「肯定的な声」が登場するまで、批判の力を備えたものとして繰り返し用いられている。たとえば、バスコンセロスに対する「一般人の合唱」は、こう書かれている。「やつは左翼だ。やつは社会主義者だ。やつは理想主義者だ。俺たちは働きたいんだ。俺たちにはパンが必要だ」[ibid.:34]。このようにバスコンセロスに対してコロスの批判の声を対応させながらも、イカサは彼らの活動の基盤を社会的に整備してくれたバスコンセロスを自分たちの「英雄」としてあつかっていると言う。

 なぜ第一の潮流、つまりメキシコを神秘的なものととらえている潮流をバスコンセロスに擬人化したのかと問う向きもあろう。哲学者たちや学識豊かな賢人たちの名がわたしにたいして引きあいに出されもしようし、同様にわたしの世代の知識人であるはずの誰かをわたしに思い起こさせる者もいるだろう。 だがわたしはバスコンセロスをひとりの英雄として、すなわちインドアメリカ的知識人のもとめるアメリカの英雄として、提示しているのである。われわれのアメリカの英雄として存在してきたのはほかならぬ彼なのだ。そのような人物としてわたしは彼を提示している。バスコンセロスをとりあげたのは、彼が賞賛に値する唯一の人物だからでも、最高の賢人だからでも、また善意のひとだからでもない。しかし他の誰一人として自らを賢人になさしめる幸運をつかんだ者はいないのである。[ibid.: 17-8]

「バスコンセロスをとりあげたのは、彼が賞賛に値する唯一の人物だからでも、最高の賢人だからでも、また善意のひとだからでもない」。イカサはバスコンセロスを肯定的に評価しているわけではないのである。「しかし他の誰一人として自らを賢人になさしめる幸運をつかんだ者はいないのである」。つまり、幸運の助けによって能動的に自己創造をおこないながらも決定的な限界をかかえた存在として、彼はバスコンセロスをとらえている。メキシコ革命を完遂するための知的な力としてメキシコの自己意識を彫琢してきた先人たちにイカサはこのように「敬意」を払いながらも、もはや克服されるべき存在として描き出す。それはこのテクストが献 レイエスの声が登場するのは次のような設定のもとである。それは、アルプスか

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らロマン・ロランの声が発せられ、レーニンを挟みながら、こだまのようにエッフェル塔の上から0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

アルフォンソ・レイエスの声が―メキシコの山々にすえつけられた拡声器という突拍子もないものよりもはるかに「空想的」なのだが―発せられるというものだ。詩人・作家・思想家・外交官と多面的な顔をもつレイエスもまた、バスコンセロスと同様に 1910 年代に実証主義批判の青年知識人集団「青年アテネオ」にかかわったひとりである [García Morales 1992: 54-60, 134-158]。だがレイエスがバスコンセロスと異なるのは、次の 2点においてであった。第一に、バスコンセロスがナショナリズムを訴えたのにたいして、レイエスは狭隘なナショナリズムを批判しコスモポリタン的な開かれを求めたという、逆のベクトルである。第二の相違は第一の相違と奇妙なねじれをみせる。バスコンセロスが新生メキシコの基盤をヨーロッパの継承としての「混血性」に求めたのにたいして、レイエスはこのときまでの作品としては『アナワク幻想 Visión de Anahuac』(1917)に代表される先住民族の世界を高く(しかしロマンティックに)評価する「土着性」にもとめている。レイエスにあっては土着と「ヨーロッパ」=コスモポリタンな普遍とが矛盾を来すことなく共存していた。だが「フランスかぶれ」「インディオの顔をした『白人』」としばしば揶揄された彼のそうした傾向に対して、レイエスと同様にヨーロッパ経験をもつイカサは批判的である。そしてロマン・ロランに重なるレイエスの声もまた、メキシコの貧しい者たちの声であるコロスの大合唱と嘲笑にかき消されてしまう。こうしたやりとりの後に登場する第四の声こそが、イカサの狙う土着の自生的なナショナリズム

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を語る「過激主義に拠る美の政治」そのものであり、その決定的な役回りはディエゴ・リベラに割り当てられている。そしてけっして見落としてはならないのは、この第四の声が拡声器なしに聴衆に語りかけ、一体となった聴衆を獲得し、肯定的な反応を返される唯一のものであることである。

繰り返し [ト書き ]。なにごとかをなさねばならない。語ってはならない。インディオはあまりにも賢いがゆえに何ものもつくらず、言葉が余っているところに座り込んでいる。なにごとかをなさねばならない。創造せねばならない。メキシコ人でなければならない。くたばれ、パリ! フランスかぶれの恩知らずを打ち倒せ! やつらを叩きださなければならない! われわれはピラミッドの建設者たちに学ぼう。中断されていた彼らの仕事をつづけよう。メキシコの任務をはたそう。メキシコを立派な国にしなければならない。メキシコを表現しなければならない。

創造的な大衆がピラミッドの麓に集ってきた。画家たち、何人かの作家、農業技師たち、教師たち、すべての決然とした人びとがメキシコの課題をはたす。[ibid.:40]

こうして、パフォーマンスは高らかな集合的主体の登場をもって終わりを告げる。たしかに、イカサの『拡声器 1926』は、もし実現可能であったならば

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、そしてそこに描かれたいくつもの声がイ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

カサの考えたとおりに0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

「一般人たち0 0 0 0 0

」に届き彼らをひとつの国民にまとめあげるものだったならば0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

、壮大なページェントになりえた作品であった。

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おわりに

しかし、イカサのテクストに表現されている、たがいに拮抗しあい最終的にひとつのものへと収斂していく声=言説は、輻輳した現実の関係性のもとでは、それほど見事な対比関係や抗争状況、そして収斂にいたらないものだった。なぜならば、バルツィーニを除いて、バスコンセロスとリベラのメキシコの文化にかんするナショナリスト的共通性、レーニンとリベラのあいだでの共産主義という共通項などが、イカサのパフォーマンスにおいて設定された対抗関係を根元から揺るがしてしまうからである。そして、リベラの声において明示的に一個の集団的主体として、すなわち聴衆=国民として統一的に構成されるはずのメキシコ民衆には、このテクストは届かなかった。それは何よりも、『拡声器1926』がパフォーマンスとして実現不可能であったことに加えて、1927 年の初頭にベラクルス州政府が保守派によって転覆され、さらにそこに全国的な宗教禁止令をきっかけとした敬虔なカトリックの貧農たちの武装反乱、いわゆる「クリステーロの反乱」が起こした波紋が重なったためである。このクリステーロの反乱こそ、下からの「伝統的」な過激主義の沸騰的表現であり、民衆が自らをひとつの存在として見出しうる生成変化にほかならなかった [Purnell 1999: Butler 2004; 崎山

2008]。だがそこに現れたのは、エストリデンティスタたちの思い描いたものとはまったく異なる表現だったのである。1000 部のテクストはエストリデンティスタたちに親しい人びとに贈呈された以外、日の目を見ることはなかった。この事態が、『拡声器 1926』の発行を、集団運動としてのエストリデンティスモの最後の活動とする決定打となったのである。エストリデンティスモの展開をめぐる問題は、もちろん、ここで述べたものに限定されるものではない。事実、彼らの運動は、集合性をめざしたものであったが、その過程において調和的とはけっして言えないような多重多様な相貌を見せている。その多重多様な相貌は十分に成長可能なものだったのではないかと思われるが、ともかくも 1927 年の初頭をもって彼らの運動が終りを告げたのだった。このエストリデンティスモの「終焉」を示す一例として、メキシコ・シティでの彼らのたまり場であった「無名者たちのカフェ」というタイトルを冠した、アルケレス・ベラの短編小説がある。40ページにみたないこの本は、ベラクルス州政府に支援を受けたエストリデンティスタたち自身の出版所である、『地平線』出版から 1926 年という発行年がついて出版されている。だが、奥付けにあたるページで、26 年の大晦日に印刷が完了したという記述があることから、じっさいには 1927 年になってはじめて「公刊」されたものと考えて差し支えないだろう。「エストリデンティスモの頭目」マプレス=アルセに捧げられたこの小さな本の冒頭に、ベラは、「カフェの入り口は、観念作用の、つまり夢の『地下鉄 subway』に入り込む、現実の階段の最後の一段のようなもの」[Vela: 1926:11]と書いた。だが、このようなレトリックは、エストリデンティスモの名のもとに記されたものではあっても、はたしてエストリデンティスタたちの間で―グループ内で「共有された」価値観をベラは書こうとしているからなのだが [Schneider 1985:18]―好意的に受けとめられたのだろうか。「無名者たちのカフェ」という名に、ベラは新たに表現を再建

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するための白紙状態を見出していた。

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しかし、夢の「地下鉄」へと向かう現実の階段の最後の一段といった表現は、「地下鉄」が近代的な交通機関であり機械制を表しているにしても、マプレス=アルセらには形而上的に思われたようである [Maples Arce 1944: 33-35; idem. 1964: 158-160]。先の宣言にもあらわなように、そうしたメタファーの体系

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にたいしてマプレス=アルセはそれほど関心を示さなかった。一個の運動体をめざしながら、表現をめぐっては深刻な齟齬が存在していたわけである。それぞれが異なる表現者でもあることを思えば、こうした齟齬が生じるのはきわめて当然のことといえる。しかし、自分たちの表現活動の現実的な基盤が崩れ去ろうとしている危機の只中で表れたこの齟齬は、エストリデンティスモのもつ「われわれ」のなかでの集団化の志向性の、さらにそれを基盤とした「われわれ」と「君たち」を一体化させようという志向性の解体・終焉を暗黙裡に示していたといえる。そしてまた、リスト=アルスビデはベラの小説刊行直後に、『エストリデンティスモ運動』と題する、個人の観点から編んだ集団としてのエストリデンティスモのアンソロジーを『地平線』出版から 1927 年に出版する。これは一種の「総括」でもあった。リスト=アルスビデは、この「総括」の書を、さまざまな国のアヴァンギャルド運動の主要人物

(ラテンアメリカ系に限定されているが)に送りつけた。送付先の国は判明しているだけでも、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、ペルー、コロンビア、エクアドル、コスタリカ、キューバ、ドミニカ、さらにはフランスとスペインにまでおよんでいる。そして、返ってきた反応のうちから肯定的なものだけを選って、『ヘルマン・リスト =アルスビデの書物『エストリデンティスモ運動』にかんする意見』と題して出版したのである。そのなかには、ペルー南部ティティカカ湖畔の地方都市プーノで活動をしていたガマリエル・チュラタ(アルトゥーロ・ペラルタ)も入っている。エストリデンティスモがラテンアメリカでもっとも「近代化」をとげているメキシコの都市部から発信されたことに対して、周辺農村部において月刊で発行していたアヴァンギャルド地域雑誌『ボレティン・ティティカカ』を舞台とするチュラタらの先住民文化を基礎においた活動は [崎山 2011 Forthcoming]、みごとな対照をなしている。しかし、リスト=アルスビデもチュラタも同様に、新たな表現実験と反ブルジョア的な「われわれ」へと国民を編成していこうという情熱においては、共通の土俵に立っていたというべきだろう。上の本に掲載された『ボレティン・ティティカカ』の書評記事で、チュラタは次のように書いている。

 アルスビデの書は、言葉をつうじてメキシコの人間たちが抱いている、社会正義の緊迫した握りこぶしの最良の稜堡―インドアメリカの魂の覚醒を有するもっとも高きバリケード―である リスト=アルスビデに耳を傾けよ 何世紀もの時間が延期している飢餓の洞窟をぬけ、抵抗の最後のトンネルに入ること―生命のためのストライキを確実にさせること―影の生産工場を廃棄し、君たちの赤い三角の小旗をそれらの工場の扉のうえにすえつけ、スキャンダルの声明をつくりあげ、ブルジョアジーの大通りの通行を歌の貧民窟で妨げること―群集を構成すること

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メキシコ人はこのように語っているのだ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

[List Arzubide[ed.]:1928:41]

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チュラタの前衛詩的「書評」は、リスト=アルスビデの、そしてエストリデンティスタたちの失敗した構想について正鵠を射ているように思われる。だが、リスト =アルスビデがこのような肯定的な評価をわざわざメキシコの外から呼び寄せたのは、個人的「名声」を確立することでエストリデンティスモの名を歴史に刻み込もうとしたのではないか [List Arzubide 1988: 37-38]。それが善意から発していようと、集団運動としてのエストリデンティスモにみずから終止符を打とうという行為ではなかったのか [Mora 1999: 67-68, 79-80, 138-139]。ともかくも、すでにエストリデンティスタたちの間に亀裂は走ってしまっていた。そのことがよく現われているのが、ベラの小説の末尾に載せられたカフェ・デ・ナディエに集った「常連」のリストである [Vela: 1926: 36-7]。「エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ」で終わるそのリストには 51人が掲げられており、中には「人民大学」運動にかかわっていた時期のミゲル・アンヘル・アストゥリアスの名も見える。だがそれよりも興味深いのは、リストの冒頭、19 番目、そして最末尾と 3回にわたってリスト=アルスビデの名が繰り返されている一方、レトリックの面でベラと齟齬をきたしていたと思われるマプレス=アルセの名は、カフェの名付け親としてこの短編を献じられていながら、一度も登場していない

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ことである。その後、マプレス=アルセとリスト=アルスビデは、軽蔑し拒絶していたはずの国立芸術学院の教授として迎え入れられる。結局のところ彼らが、みずからの芸術活動を保証してくれるところなら、それまでの信条を裏切ってでも馳せ参じるような芸術至上主義に取り憑かれていたとする「批判」も存在するが、そのような裁断はたんなるイデオロギーの告白にすぎない。言うまでもなく、ひとの人生に思想的一貫性を強制することなど誰にもできないのだから。そして、このふたりにイカサをあわせた三人は、別々の遍歴の後に 1940 年代に政権党のメンバーとなり、メキシコ政府の有能な外交官として活躍するようになった。マプレス=アルセにいたっては、サンフランシスコ講和条約締結をもって日本との国交を再開したさいのメキシコ全権代表であり、第二次大戦後初代駐日大使としてつとめ、日本通としてエッセイをものしたことが知られている。ベラやアルバ=デ=ラ=カナルもアカデミー的な芸術の世界に地位を得た。彼らもまたときにエストリデンティスモに触れてはいる。だがそれはつねに自分個人のエストリデンティスタ経験としてであって、集団としての、あるいは運動としての経験を彼らにとってアクチュアルな何ものかとして語ることはなかった。そして彼らの誰もが、メキシコの絵画・文学に偉大な足跡を残した存在として―しかし「過去」

の存在として―称揚され、今では研究対象として以外にはあつかわれずに忘れ去られようとしている。だが、それらはすでにエストリデンティスモをめぐる歴史でも、メキシコの前衛主義運動のそれでもなく、まったく別の道筋をたどる物語である。

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崎山政毅「メキシコの 1968 年、あるいは『マイノリティへの生成変化』が残した問い」、小泉他編『ドゥルーズ/ガタリの現在』、平凡社、2008 年 301-324 頁。―「アンデスのアヴァンギャルド」、『立命館言語文化研究』第 22 巻 4 号、2011 年 3 月刊行予定

追記:この小文を石井芙桑雄教授の思い出に献げる。

(本学文学部学際プログラム教授)