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さいたま市西区コミュニティ課 西区文化財 ガイドブック さいたま市 西西

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さいたま市西区コミュニティ課

西区文化財ガイドブック

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西区に人々が生活を営むようになったのは旧石器時代の

ことで、今日まで営々と活動を続けてきた過程で、さまざ

まな文化財を伝えています。

これらの文化財は、先人たちの生活や文化を理解するう

えで貴重な遺産といえます。ひとたび失われると、これを

再現することは不可能です。

この地を理解し、将来に活かしていくために、これらの

いわば文化遺産を知ることが非常に大切なことと考えてい

ます。このような視点から、区民の皆様にそのあらましを

知っていただき、歴史を刻んできた西区に対するご理解を

深めていただき、将来の豊かな西区のコミュニティづくり

に活かしていただければと念じています。

ささやかなこの1冊が、そのような観点から皆様のご参

考になれば幸いです。おわりになりましたが文化財の所蔵

者・管理者の方々ならびにご指導を頂戴した市文化財保護

課・市立博物館に感謝の意を表します。

西区区民会議 歴史・文化部会

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目 次

西区の歴史と文化財のあらまし ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4西区文化財マップ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥8ガイドブック活用法 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10

1 永田家長屋門及び簓子塀 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥122 林光寺絹本着色真言八祖画像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥133 高木地蔵堂紙本着色十王地獄図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥144 高木地蔵堂木造地蔵菩薩坐像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥155 阿弥陀堂木造阿弥陀如来坐像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥166 興徳寺旧本尊像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥177 林光寺銅鐘 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥188 高木地蔵堂鰐口 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥199 宝来神明社銅鏡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2010 清河寺文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2111 地方文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2212 慈眼寺文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2313 慈眼寺朱印状 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2414 林光寺朱印状 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2515 二ツ宮阿弥陀堂板石塔婆 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2616 法願寺板石塔婆群 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2717 東光院五輪塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2818 弥生時代のガラス玉・鉄製鎌 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2919 天保十一年銘秋葉神社算額 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3020 辻の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3121 大倭神社の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3222 高城寺の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3323 秋葉ささら獅子舞 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3424 指扇の餅搗き踊り ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3525 方墳大塚古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3626 「馬宮村櫻草自生地」の碑 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3727 藤橋の六部堂 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥38

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28 池上家冨士浅間塚及び関係資料 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3929 青葉園のフジ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4230 清河寺の大ケヤキ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4331 植田谷本のクスノキ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4432 三橋のヒイラギ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4533 法光寺のシイノキ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4634 東光院銅造馬頭観音坐像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4735 西大宮バイパスNo.4遺跡出土旧石器‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4836 福寿庵百観音 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4937 赤羽根荒沢不動石仏 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5038 西区周辺の観音霊場 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5139 中郷薬師堂の元禄十三年無食供養塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥55

文化財見学時のお願い ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥56文化財収蔵館 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥57

西区に伝わる祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥591 飯田新田の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥602 五味貝戸の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥603 高木阿弥陀寺の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥614 中郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥615 佐知川上の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥626 下郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥627 宿東間の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥638 清河寺の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥639 二ツ宮の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6410 塚本の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6411 土屋の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6512 宝来の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6513 内野本郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6614 穂積の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6615 木ノ下の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥67

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西区の歴史と文化財のあらまし

西区は平成15年4月にさいたま市が政令指定都市に移行したことに伴い、北から指扇・馬宮・植水の三地区のほか、日進地区から宮前町、三橋地区から五丁目・六丁目などの内野地区が編入され、台地と低地からなる豊かな区の成立をみたわけです。

1.「和名類聚鈔」と「殖田郷」西区のうち指扇地区以外の地域と桜区のほぼ北半分を合わせた区域及び大宮台地の西縁を加えた地域は、平安時代に編さんされた「和名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)」の国郡郷の部に記された「殖田郷(うえたごう)」に相当すると考えられています。これらの低地帯には、一町(およそ109ⅿ)四方に区画された条里が営まれ、当時の財力の要であった生産性の高い稲作が行われていたものと考えられています。この地域こそ「古代足立郡」の中心地であったことが知られています。低地帯も一様に平らというわけでなく、古代の川の流れに沿っ

て帯状の微高地がみられます。地形学のうえで、これを「自然堤防(しぜんていぼう)」と呼んでおり、弥生時代~奈良平安時代の竪穴式住居の跡が発掘されています。この地が人口密度の高い地域であったことが分かってきています。低地と接する台地の縁には、支配層の墓である古墳が築かれ、低地と一体の土地であったものと理解されます。このようにこの広い低地帯こそ西区の歴史の上で最も特徴的な舞台であったとみてよいわけです。次第に自然堤防の上には寺院や人家・畑が営まれて、長い年月

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をかけて現在の景観に発達してきたのです。水判土の慈眼寺(天台宗)や植田谷本の林光寺(真言宗)は、いずれも平安時代前期に創立され、特に後者は境内周辺からそのころの布目瓦が出土することから、これを裏付けることができま

ふす。桜区の大久保領家には軒先を蓮華文で飾る瓦を葺いた奈良時代前半に建立された寺院とみられる遺跡があり、古代足立郡を支配した郡司の氏寺又は郡の寺と考えられています。台地の上である指扇地区もあるいは「殖田郷」の一部であった可能性もあります。中世か近世にかけて「指扇領」となったために、古代の殖田郷と別の地域として扱われるようになったものかもしれません。

2.鎌倉時代・室町時代西区の台地や低地にも鎌倉時代に入ると、後世に新田開発が行

われた地域を除いて、広く各地に集落の営まれたことが知られる遺物が認められるようになります。顕著なものをあげると、台地上では水判土の慈眼寺観音堂の木造千手観音立像で、平安時代末から鎌倉時代初期に造立されたものと考えられます。低地での代表的な例では、二ツ宮阿弥陀堂の木造阿弥陀如来坐像をあげることができます。後世修理の手が入っていますが、鎌倉時代の「正応元年(1288)」と思われる墨書銘(紙片)が納入されており、隣接した墓地には「正嘉二年(1258)」及び「永仁五年(1297)」の大形板碑等が遺存しています。この地は「武久田(ぶくで)」と呼ばれ、もともとは「仏久田」と表記されていたところから本来は「仏供田」、つまり、この仏像に関わる寺領ではなかったかと考えられ、在地領主級の武士の存在が想定されるのです。

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また室町時代初期の指扇地区の北部は、滝沼川を境として東側が「内野郷」、西側が「中茎郷」であったと考えられ、前者には「清河寺」が足利氏の祈願所として創建され、当時の古文書が伝えられ、後者は鎌倉建長寺の塔頭「大統庵」が地頭職(じとうしき)を得て、後に末寺として「本願寺」が建立されました。今日に伝えられている「木造地蔵菩薩坐像」は、その本尊であったと思われます。一緒に伝えられている「鰐口」「十王地獄図」により、その後の村人達の信仰のありさまを知ることができます。

3.台地と低地の人々の生活もちろん台地上では関東ローム層のなかから旧石器が発掘され、

まだ土器を作ることを知らなかった人々の生活のあとが確かめられ、その後、縄文時代・弥生時代・古墳時代さらに奈良・平安時代にも引き続いて生活が営まれていたことが明らかとなっています。さきにも触れた板碑は、台地の上の村落にも低地自然堤防上に

も、鎌倉時代から室町時代にわたって広く分布しています。次第に小形化の傾向が認められ、庶民層近くまで供養塔婆の造立がかなり普遍化してきたようです。台地の上でも井戸を掘るなど水利が発達してきて、開発が広く行われてきたものと考えられます。江戸時代に入ると旗本・代官が直接在地の管理を行うようになり、指扇領三千石を知行した山内一唯は中釘に陣屋を置き、宝来野の新田開発を進めます。開発の成就に際し神明社に銅鏡を奉納しています。また幕府も堤防の築造や新田開発を積極的に行い、関東郡代は土屋に陣屋をもうけてこれを進め、永田家がこれを受け継ぎ、武家造りの長屋門として威容を誇っています。

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4.人々の信仰山内家が一向宗・日蓮宗に帰依していた関係で、妙玖寺及び法光寺の建立をみています。これまでこの地域内にはみられなかった宗派です。また指扇地区のなかで顕著な遺跡として富士塚の存在があります。西区内に5基遺存しているなかで、類例のみられないものとして「池上家冨士浅間塚」をあげることができます。石室を築造し「安産信仰」を伴うことと、江戸時代前期まで遡る遺跡で、塚上の浅間社に木造木之花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

まつ像を祀っているとのことです。広く庶民層に信仰が広まってくるのは、大雑把にみると元禄時

代前後からです。特にこの地域の顕著なものをあげると、足立郡内に広められた「観音霊場」や、少しくだって「足立百不動」などを巡礼する風習です。またこれに関連して西国・坂東・秩父百番を一堂に勧請(かんじょう)した「百体観音堂」を宝来に創建しています。これも札所に取り入れられ、十二年に一度午年にご開帳され、近郷近在の広い階層の人々が巡拝してきたようです。西区を特徴付ける「無食念仏供養(むじきねんぶつくよう)」は、

講を結んで毎月特定の一日に三食とも食事をせず、念仏を唱えるなどの修行を三年三か月継続することによって成就するものです。「百体観音堂」の建立も「無食念仏供養講」も大勢の人の助力によって、この地域に根付いたものと考えられます。また隠居した女性を中心として村ごとに「念仏講」が結ばれ、

「二世安楽」を願った人々が、念仏を唱え地蔵石仏を造立してきました。信仰は生活に溶け込んだものだったのです。

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西区文化財マップ

※拡大地図が巻末にもあります。※非公開文化財はマップに掲載していません。8

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❶永田家長屋門及び簓子塀 ‥‥‥‥‥‥12土屋

❷林光寺絹本着色真言八祖画像 ‥‥‥‥13市立博物館寄託

❸高木地蔵堂紙本着色十王地獄図 ‥‥‥14市立博物館寄託

❹高木地蔵堂木造地蔵菩薩坐像 ‥‥‥‥15市立博物館寄託

❺阿弥陀堂木造阿弥陀如来坐像 ‥‥‥‥16二ツ宮

❻興徳寺旧本尊像 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥17宮前町

❼林光寺銅鐘 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥18植田谷本504

❽高木地蔵堂鰐口 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥19高木

❾宝来神明社銅鏡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥20市立博物館寄託

10清河寺文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥21県立文書館寄託

11地方文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥22

12慈眼寺文書 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥23水判土

13慈眼寺朱印状 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥24水判土

14林光寺朱印状 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥25植田谷本

15二ツ宮阿弥陀堂板石塔婆 ‥‥‥‥‥‥26二ツ宮379

16法願寺板石塔婆群 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥27西大宮二丁目14-4

17東光院五輪塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥28島根690

18弥生時代のガラス玉・鉄製鎌 ‥‥‥‥29土屋下12-2(保管場所 土器の館)

19天保十一年銘秋葉神社算額 ‥‥‥‥‥30中釘

20辻の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥31指扇領辻162-1

21大倭神社の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥32三橋6-411

22高城寺の庚申塔 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥33西遊馬229

23秋葉ささら獅子舞 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥34

24指扇の餅搗き踊り ‥‥‥‥‥‥‥‥‥35

25方墳大塚古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥36宮前町

26「馬宮村櫻草自生地」の碑 ‥‥‥‥‥37荒川堤外治水橋下

27藤橋の六部堂 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥38植田谷本66-2

28池上家冨士浅間塚及び関係資料 ‥‥‥39中釘

29青葉園のフジ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥42三橋5-934

30清河寺の大ケヤキ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥43清河寺

31植田谷本のクスノキ ‥‥‥‥‥‥‥‥44植田谷本

32三橋のヒイラギ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥45三橋

33法光寺のシイノキ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥46西大宮四丁目61-4

34東光院銅造馬頭観音坐像 ‥‥‥‥‥‥47島根

35西大宮バイパスNo.4遺跡出土旧石器 ‥48宮前町(保管場所 市立博物館)

36福寿庵百観音 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥49宝来

37赤羽根荒沢不動石仏 ‥‥‥‥‥‥‥‥50指扇

38西区周辺の観音霊場 ‥‥‥‥‥‥‥‥51

39中郷薬師堂の元禄十三年無食供養塔 ‥55西大宮1-34-5

❶飯田新田の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥60飯田新田地区

❷五味貝戸の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥60指扇五味貝戸地区

❸高木阿弥陀寺の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥61高木阿弥陀寺地区

❹中郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥61指扇中郷地区

❺佐知川上の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥62佐知川上地区

❻下郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥62指扇下郷地区

❼宿東間の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥63西遊馬宿東間地区

❽清河寺の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥63清河寺地区

❾二ツ宮の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥64二ツ宮地区

10塚本の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥64塚本地区

11土屋の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65土屋地区

12宝来の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥65指扇宝来地区

13内野本郷の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥66内野本郷地区

14穂積の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥66穂積地区

15木ノ下の祭り囃子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥67指扇高木木ノ下地区

※オレンジ色は非公開です

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�所在地 土屋

この長屋門は一般に見られるものと異なって武家造りの豪快なものです。永田家は構え堀を具え、幕府が江戸時代の早い時期に、河川改修や新田開発を行った時の陣屋を賜ったと伝えられています。長屋門・簓子塀(ささらこべい)の正面並びに構え堀については、見学することができます。すぐ近くの道香院に、永田家歴代の墓所があります。

ささらこべい

1 永田家長屋門及び簓子塀市指定 有形文化財 建造物 公 開

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①写真文化財の写真を紹介しています。

②各文化財名称文化財の名称を表記しています。番号は、P8のガイドマップの番号に対応しています。

③指定区分指定されたものを表しています。

④種類文化財のジャンルを表しています。

⑤ 文化財を一般公開しているか、一般公開されていないかを表しています。

⑥データ文化財の所在地(保管場所)や交通を表記しています。※非公開や個人宅の場合は所在地は大字名のみ表記しています。又、交通については表記しませんのでご了承下さい。

⑦解説各文化財についての説明です。

ガイドブック活用法

② ④③

⑤⑥

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◆上演期日・場所八幡神社の元旦祭、4月17日に八幡神社の春祈祷、7月14日近くの日曜日に行われる八雲神社の天王様の祭礼、10月14日にお日待ちの秋祭り◆伝承と沿革文久年間(1861~1864)の頃飯田新田地域は開発が進み、それに伴い風紀

は乱れたと言われています。これを憂いた権現堂の住職が、五味貝戸に伝わる阿弥陀寺流囃子の師匠を招き若者達に囃子の指導をお願いしたのが始まりと言われています。明治の後期に囃子は低迷しましたが、大正時代に岡田源助氏らによって復活しました。昭和30年代までは、長男でなければ囃子はできませんでしたが、現在は地区の人であれば、年齢・性別に特に制限なく、後継者の育成に努めています。昭和50年に飯田新田囃子保存会となりました。

◆上演期日・場所1月元旦祭、7月中旬の日曜日八雲

神社の祭礼天王様、7月31日大宮夏祭り(こどもフェスタ)、8月の盆踊り・指扇まつり、11月西区ふれあいまつり◆伝承と沿革五味貝戸の囃子は、天保年間頃は阿

弥陀寺流を叩き隆盛を極め、飯田新田に教えたりして勇名を馳せていましたが、その後衰退し、一時は途絶える寸前までに至りました。明治初年、これを憂いた小島秋三郎氏らが木ノ下の高野忠兵衛氏から木ノ下流を習い、復活したと言われています。明治の末頃から大正にかけて、塚本、二ツ宮、土屋、宝来、本村、宿東間へと囃子を教えました。戦後しばらく下火になりましたが、池谷勝則氏によって復活が図られ昭和51年に現在の五味貝戸囃子連が結成されました。

2 五味貝戸の祭り囃子

伝承団体/五味貝戸囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇五味貝戸地区

1 飯田新田の祭り囃子

伝承団体/飯田新田囃子連(阿弥陀寺流)所 在 地/西区飯田新田地区

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①祭り囃子名称各祭り囃子の名前を表記していま

す。番号はP8のガイドマップの番号に対応しています。

②データ伝承団体、所在地を表記しています。

③写真伝承団体を紹介しています。

④詳細祭り囃子の上演期日や場所、詳しい伝承の様子や流れなどを紹介しています。

④ ③

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�所在地 土屋

この長屋門は一般に見られるものと異なって武家造りの豪快なものです。永田家は構え堀を具え、幕府が江戸時代の早い時期に、河川改修や新田開発を行った時の陣屋を賜ったと伝えられています。長屋門・簓子塀(ささらこべい)の正面並びに構え堀については、見学することができます。すぐ近くの道香院に、永田家歴代の墓所があります。

ささらこべい

1 永田家長屋門及び簓子塀市指定 有形文化財 建造物 公 開

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�所有者 林光寺(植田谷本)�保管場所 市立博物館寄託

もともと弘法大師空海によって中国からもたらされた真言宗の祖師7人の画像に、空海を加えた8人の画像を「真言八祖画像(しんごんはっそがぞう)」と呼んでいますが、その写しが各地に伝えられています。当時、地域の中本寺であった林光寺の画像は室町時代に写されたもので、絹地に描かれた優れた作品です。公開していないので見学することはできません。弘法大師空海のほかは、すべて中国の僧侶で、龍猛(りゅうみょう)・龍智(りゅうち)・金剛智(こんごうち)・不空(ふくう)・善無畏(ぜんむい)・一行(いちぎょう)及び直接教えを受けた恵果(えか)の7人です。

しんごんはっそ

がぞう

2林光寺絹本着色真言八祖画像

市指定

有形文化財

絵画

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�所有者 地蔵堂(高木)�保管場所 市立博物館寄託

高木末広自治会館には木造地蔵菩薩像が安置されていますが、かつては8月24日に地蔵盆が行われ、人の死後、閻魔王(えんまおう)などが行う10回の審判や地獄の情景を描いたこの画像が掲げられていました。図をみて生前の行いを悔い改める仏教的な行事です。江戸時代初期から地蔵菩薩像に信仰を寄せた地域の人々によって地蔵盆が行われ、当日は塩饅頭をお供えし、人々は車座になって大数珠を回しながら念仏を称えます。縦129.5㎝、横181㎝。

3 高木地蔵堂紙本着色十王地獄図市指定 有形文化財 絵画 非 公 開

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�所有者 地蔵堂(高木)�保管場所 市立博物館寄託

この像は室町時代、この地にあった「本願寺」(鎌倉に建立された臨済宗建長寺の塔頭〔たっちゅう〕大統庵〔だいとうあん〕の末寺)の本尊と考えられる仏像です。袖先や裳裾(もすそ)を台座から垂らしているのが特徴です。室町時代末頃、本願寺が廃寺になったあと、この地域の人々によって守り本尊として信仰され、今日まで大切に伝えられてきました。寄木造・高さ(像高)49.5㎝。

4高木地蔵堂木造地蔵菩薩坐像

県指定

有形文化財

彫刻

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�所在地 二ツ宮

鎌倉時代、正應(しょうおう)元年(1288)の作、寄木造(よせぎづくり)で阿弥陀仏を信仰する人を極楽に迎えにくることを示す来迎印(らいごういん)を結んでいます。お堂を囲む墓地には、鎌倉時代の大形「板石塔婆(いたいしとうば)」が残されているところから、当時、この地域を支配した武士が館を構えたものと考えられます。公開されていません。寄木造・高さ(像高)62㎝。

5 阿弥陀堂木造阿弥陀如来坐像市指定 有形文化財 彫刻 非 公 開

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�所在地 宮前町

この木造三尊像は元本尊であったと伝えられています。もともと一組として造られたものかどうかはっきりしませんが、このうち地蔵菩薩像が幾分か早い時期とみられています。地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、釈迦(しゃか)の入滅(にゅうめつ)後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が56億7千万年後、如来(にょらい)となって衆生(しゅじょう)を救済するため娑婆世界(しゃばせかい、すなわちこの世)に現れるまで、信仰を寄せる者を極楽に導く役割を果たします。弥勒菩薩(みろくぼさつ)は未来仏(みらいぶつ)とも呼ばれて、阿弥陀如来(あみだにょらい)が過去の仏とされるのに対し、未来を司る菩薩・仏として信仰されています。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、限りない知恵・慈悲を持った菩薩として信仰されています。いずれも室町時代につくられたもので、寄木造・高さ(像高)40㎝前後。

6 興徳寺旧本尊像―弥勒菩薩坐像・地蔵菩薩坐像・虚空蔵菩薩坐像―

市指定 有形文化財 彫刻 非 公 開

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�所在地 植田谷本504�交 通 西武バス「大宮光陵高校」

この銅鐘は優れた特徴があるため、戦時中の金属回収の対象から外されて今日まで伝えられた貴重なものです。江戸時代の安永5年(1776)の年号および寺域を守護する四天王像が優美な姿で鋳出され、さらに4つの撞座(つきざ)が設けられています。江戸の鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政時(にしむらいずみのかみふじわらのまさとき)の作です。高さ146.4㎝、口径75㎝。

7 林光寺銅鐘市指定 有形文化財 工芸品 公 開

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�所在地 高木

この鰐口は高木地蔵堂に伝えられてきたもので、江戸時代の寛文4年(1664)の年号が刻まれています。木造地蔵菩薩像に供えられて、人々が異なる宗派に属しながら一緒にお祈りしたことなどが刻まれていて、この地域の信仰をあとづける貴重な歴史資料でもあります。公開されていません。直径30.5㎝。

8 高木地蔵堂鰐口市指定 有形文化財 工芸品 非 公 開

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�所有者 宝来神明社�保管場所 市立博物館寄託

江戸時代、寛文5年(1665)の年号を鋳出した、山際近江守藤原重富(やまぎわおうみのかみふじわらのしげとみ)の作品。当時、この地を支配した山内家の家臣である高村氏が新田開発の成就を祈って奉納したものです。現在、市立博物館に寄託されており、公開されていません。直径24.6㎝。

9 宝来神明社銅鏡市指定 有形文化財 工芸品 非 公 開

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�所有者 清河寺�保管場所 県立文書館寄託

清河寺は、室町時代初頭当地に建立された古刹(こさつ)で、貴重な古文書が伝えられています。この古文書は現在、埼玉県立文書館に寄託されていますが、江戸時代に幕府が編さんした「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」の記事などを参考にすると、関東一円を支配していた鎌倉府の足利氏の祈願所として建立され、もとは七堂伽藍を具えた寺院であったと伝えています。公開されていません。

せい が じ

10 清河寺文書県指定 有形文化財 古文書 非 公 開

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江戸・明治時代の村の運営にかかわることがらを記した古文書が、名主などの役割を勤めた家に残されています。非公開です。小島家文書は「小島勘太夫家文書(こじまかんだゆうけもんじょ)」と呼ばれ、植田谷領三ヵ村の割元名主であった関係で、幕政当初からの村落構造・年貢の納入状態・荒川沿岸地域の開発を明らかにできる文書300点を伝えており、県立文書館に寄託されています。石川家・都築家・岡田家・片岡家にはそれぞれ近世から明治にかけての文書が伝えられ、市立博物館に寄託されています。

じ かた

11 地方文書―小島家・石川家・都築家・岡田家・片岡家―

市指定 有形文化財 古文書 非 公 開

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�所在地 水判土

慈眼寺は平安時代初期の天長3年(826)に慈覚大師円仁によって開創されたと伝えられ、戦国時代には岩付太田氏の祈願所となり、手厚く保護されていたようです。太田氏関係文書二通や豊臣秀吉禁制(きんぜい)一通を含み、桃山時代のこの地の様相を知る上で貴重な史料です。

じ げん じ

12 慈眼寺文書市指定 有形文化財 古文書 非 公 開

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�所在地 水判土

慈眼寺は天台宗の寺院で、平安時代に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開創されたと伝えられます。この朱印状は、徳川家康以来歴代の将軍が寺領の寄進・安堵(あんど)を記した書状で、将軍の代替わりに際し、書き替えられてきました。最も古いものは、家康が関東に入ってきた翌年、天正(てんしょう)19年(1591)に出されています。非公開です。

じ げん じ

13 慈眼寺朱印状市指定 有形文化財 古文書 非 公 開

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�所在地 植田谷本

林光寺は真言宗の寺院で、平安時代の僧侶の益信(やくしん)によって建立されたと伝えられています。寺域周辺からそのころの布目瓦(ぬのめがわら)が出土します。この寺も家康以来の朱印状が残されています。朱印状は明治新政府によって、返還を求められましたが今日まで伝えられている場合が少なくないようです。非公開です。

14 林光寺朱印状市指定 有形文化財 古文書 非 公 開

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�所在地 二ツ宮379(一基は市立博物館寄託)�交 通 西武バス・コミュニティバス「二ツ宮新道」

阿弥陀堂墓地には鎌倉時代の大形の板石塔婆(いたいしとうば)が2基残されており、写真はそのうちの1基で永仁5年(1297)と認められる年号が刻まれています。一部に剥れがみられますが、阿弥陀三尊を示す梵字(ぼんじ)が刻まれた優れた彫技の作品です。板石塔婆は一般に板碑(いたび)とも呼ばれ、緑泥片岩(りょくでいへんがん)で作られた石の供養塔です。台上高176.9㎝。このように鋭くV字状の刻み方を「薬研彫(やげんぼり)」と呼んでいますが、この梵字は「キリーク」と読み「阿弥陀如来」を表しています。このような梵字(ぼんじ)を種子(しゅじ)といい、それぞれの仏・菩薩などに種子が決められています。「キリーク」の下の種子は「サ」「サク」と読み観音・勢至菩薩を示しています。

15二ツ宮阿弥陀堂板石塔婆

市指定

有形文化財

考古資料

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�所在地 西大宮二丁目14-4�交 通 コミュニティバス「指扇公民館」

高木地蔵堂(以前法願寺地蔵堂と呼ばれていました)周辺に残された板石塔婆をまとめて保存しています。鎌倉時代から室町時代にかけてのもので、最大の板石塔婆は高さ162㎝もあり、この周辺が鎌倉建長寺の塔頭(たっちゅう)大統庵(だいとうあん)の所領となった頃のものです。この一群は、恐らく武士・寺院および村人の有力な階層が建てたものと思われます。

16 法願寺板石塔婆群市指定 有形文化財 考古資料 公 開

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�所在地 島根690�交 通 西武バス・コミュニティバス「東光院前」

五輪塔(ごりんとう)も板石塔婆と同じように、石の供養塔です。この五輪塔2基はいずれも室町時代の「永禄十三年(1570)十一月十六日・逆修(ぎゃくしゅ)」などと刻まれているところから、この地の有力層老夫婦が生前、あらかじめ自分たちの死後の菩提(ぼだい)を弔うために建てたものと考えられます。高さ約63㎝。

17東光院五輪塔

市指定

有形文化財

考古資料

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�出土地 土屋下12-2(土屋下遺跡)�保管場所 土器の館(大宮区高鼻町2-305-4)

旧入間川によって形成された自然堤防上に営まれた弥生時代後期の集落におよそ50基の竪穴住居跡などの遺構が調査され、住居跡からコバルトブルーのガラス玉および鉄鎌が出土しています。鉄鎌は関東でも古い時期の遺物とみられ、この地域の開発が早くから進められたものと考えられます。また環濠(かんごう)を巡らせていたものとみられる、溝の一部が発掘されており、当時の集落の様相を垣間見ることができる貴重な遺跡・遺物と考えられます。

18 弥生時代のガラス玉・鉄製鎌市指定 有形文化財 考古資料 公 開

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�所在地 中釘

秋葉神社に2面の算額が残されているうちの1面です。算額は、主として江戸時代に和算家が自己または一門で解決した算術の問題を額に描いて、神社や仏閣に奉納したものです。この算額の奉納者は、関流算学の系統をひく和算家である江川新田(現吉見町)の田邊倉五郎高康及び向山村(現上尾市)の會田嘉吉廣懸の二人です。額の内容は幾何の問題2問で、出題と解答及びその解法が記されているようです。右下には大人・子供合わせて4人が描かれており、算木を用いての授業風景とみられます。縦88㎝、横172.5㎝。非公開です。

19 天保十一年銘秋葉神社算額市指定 有形文化財 歴史資料 非 公 開

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�所在地 指扇領辻162-1�交 通 コミュニティバス「宝来指扇病院」

庚申塔(こうしんとう)は、庚申信仰に基づいて主として江戸時代に建立された石塔です。60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の晩に就寝すると体の中に棲む「三尸(さんし)の虫」が抜け出して天帝にその間の悪業の程を告げ、その度合いによって寿命が縮まるとする教えがあります。そのため夜を徹して念仏などを称えて過ごす信仰活動が行われます。この庚申塔は笠の上に丸彫りの青面金剛像を置くのが特徴です。江戸時代の寛保(かんぽう)2年(1742)、辻村の名主(なぬし)個人による建立です。高さ257㎝。

20辻の庚申塔

市指定

有形民俗文化財

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�所在地 三橋6-411�交 通 東武バス「県営住宅前」

もともと近くにあったものを神社境内に移したものと思われ、本尊として丸彫りの青面金剛像を笠の上に置くのは、「辻の庚申塔」と同じ形です。童子・邪鬼・鶏・3匹の猿など庚申塔に共通する表現がみられます。それより約20年前、将軍吉宗の時代、享保(きょうほう)6年(1721)に建てられ、「内野上村惣村中」と刻まれているところから、広く村の人々がかかわったことが分かります。高さ256㎝。

おおやまと

21大倭神社の庚申塔

市指定

有形民俗文化財

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�所在地 西遊馬229�交 通 西武バス「馬宮コミュニティセンター」

江戸時代前期、寛文3年(1663)の年号が刻まれており、石塔の中央に青面金剛像を浮き彫りとし、童子・邪鬼・鶏・猿などを表現する典型的な形をとっています。市内ではごく初期に建てられた庚申塔の一つで、「遊馬村 是衆拾四人」と刻まれているところから、村の有力層によって建立されたものと考えられます。高さ204㎝。

22高城寺の庚申塔

市指定

有形民俗文化財

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�祭礼日 7月15日に近い土曜日

秋葉神社の祭礼に五穀豊穣、悪疫退散、厄除けを祈願して奉納するものです。獅子舞は秋葉三尺坊の修行者が村民に伝えたのがはじまりといいます。ある年に獅子舞を中止したところ、獅子頭が箱の中でうなりだし、世話役の家に病人が相ついだのですぐに復活したと伝えられています。祭礼日には、秋葉神社まで、獅子舞の一行が道笛にあわせて道行を行い、「木打ち」といって拍子木をもった者を先頭に、紅白の吹き流し、指し物、幟(のぼり)、振り万灯、高張提灯、金棒ひき、ささらを持った花笠役、天狗面をつけた山の神、獅子三頭、笛役、ひょっとこ、金打ち、法螺貝(ほらがい)、世話役の順に行列が続きます。社前に竹を4本立て、注連縄(しめなわ)を張り、四隅に花笠(ささらっ子)を配し、腰かけた山の神の前で、三頭の獅子が勇壮、華麗に舞います。秋葉神社境内で1度獅子舞を奉納した後、再び道行を行い、永昌寺内の三尺坊へ行きます。三尺坊で最後の舞を奉納し、午後6時過ぎの終了とともに祭礼の幕がおろされます。

23秋葉ささら獅子舞

市指定

無形民俗文化財

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この餅搗き踊りは、かつて「別所の接待餅」と呼ばれ、指扇領別所を中心に新築祝いや七五三祝いなどといった祝い事があると、頼まれて披露されていました。内容は、実際に餅米をつく「しんしょう搗き」、餅はつかずに曲芸風のつき方を見せる「曲搗き」、その合間などに踊られる「万作踊り」からなります。木遣や麦打ち歌で餅をつき、万作踊りを伴うという、この地域に伝わる餅つき踊りの特色をよく伝えています。また、「しんしょう搗き」でつかれた餅は、見物の人々に振舞われます。この餅を食べると「風邪を引かない」、「寿命が延びる」などといわれています。現在は公開休止中です。

24 指扇の餅搗き踊り市指定 無形民俗文化財

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�所在地 宮前町�交 通 JR 西大宮駅

四角錐の上を水平に切った形を示していて、数少ない「方墳」として県の史跡に指定されています。発掘調査されていないので明確ではありませんが、近年、異なる意見が出されています。市内で類似の塚を発掘したところ、お経を埋めて供養した「経塚」(きょうづか)であったことが分かり、また大塚古墳も立地条件からやはり「経塚」ではないかと指摘されています。高さ4ⅿ、底辺21×25ⅿ。

25 方墳大塚古墳県指定 史跡 公 開

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�所在地 荒川堤外治水橋下�交 通 西武バス「運動場前」

荒川の堤外に黄色系のノウルシの広がるなかにピンクの彩りが見られますが、これが国の天然記念物に指定されたのは、昭和9年のことです。この大きな石碑は、天然記念物に指定されたことを表示したものです。しかし戦後、食料増産のため開墾され、とうとう自生地は衰亡し、昭和27年に指定解除となりました。錦乃原の開墾に際し地域の人々が庭に移植していたサクラソウを、近年、堤外に植栽した錦乃原櫻草園にこの石碑が移建され、同園のシンボルとなっています。

26「馬宮村櫻草自生地」の碑

有形文化財

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�所在地 植田谷本66-2�交 通 西武バス「六部堂」

江戸時代、寛政年間(1789~1801)のこと、六部姿の行者小平次(ぎょうじゃ・こへいじ)がこの地を訪れ、鴨川に藤の蔓(つる)で編んだ不便な橋しかないことを知り、当地の薬師堂に滞在して村々を回って勧化(かんげ)を行い、立派な石橋を建立しました。昭和12年にコンクリートの橋に建て替えられ、また数年前に現在の橋に架け替えられましたが、当初の石材がここに集められています。藤橋を建立した行者小平次はこの地で没し、徳を慕った村人によって六部姿の石像が祀られています。

27藤橋の六部堂

市指定

史跡

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�所在地 中釘�交 通 東武バス「秋葉入口」

江戸時代前期に富士山をかたどって築かれた塚で、すり鉢を伏せたような形をしています。その頂きに祭神「木之花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祠(ほこら)に祀っています。毎年、富士山の山開きに合わせて7月1日に祭礼が行われ、無事な成長を願った親に抱かれた1歳位までの赤ちゃんが初山まいりをし、額(ひたい)や首筋に朱印を押していただきます。この塚の特徴は、ほぼ東側に開く石室(胎内と呼ばれる)を設けていることです。富士山は噴火の際に吹き出した溶岩の各所に洞穴を形成し、これを神の生まれ出ずるところとする信仰があります。塚と石室の外観だけ見学できますが、木之花開耶姫命像や石室の内部は非公開です。高さおよそ3.5ⅿ、直径およそ25ⅿ。

28池上家冨士浅間塚及び関係資料

市指定

史跡

塚だけ公開

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美しい女性を表現しており、豊かな造形から江戸時代前期ごろの作とみられます。木之花開耶姫命は大山祇神(おおやまづみのかみ)の子で、神話によれば邇邇芸命(ににぎのみこと)が高千穂峯(たかちほのみね)に降臨した際、見初められ結婚しました。火をつけられた戸の無い産室(うぶや)で、三人の子を生んだと伝えられています。高さ39㎝、随身倚像(ずいしんいぞう)は江戸時代後期の作です。いずれも非公開で見学できません。

木造木之花開耶姫命像及び随身倚像池上家冨士浅間塚及び関係資料

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塚のほぼ東側に石室の開口部があります。かがんでようやく入れる程度の高さですが、奥室を含めるとおよそ4ⅿの長さを持っています。地表を50㎝ほど掘りくぼめて造られた、いわば半地下式の石室です。石室の導入部は、天井石を支える柱に「此御胎内江不可入(このごたいないへはいるべからず)」などの文字が刻まれています。天井石の下面に年号と築造者の名前などが刻まれており、その奥には楕円形の部屋が設けられています。部屋の天井を支えている10本の柱には、出生までの月ごとの胎児が浮き彫りにされており、その上にそれぞれの守り本尊が彫りだされていて、安産信仰を伴っています。守り本尊は明治初年の神仏分離に際し削り取られ、痕跡が見られるだけとなっています。

石室(胎内)池上家冨士浅間塚及び関係資料

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�所在地 三橋5-934�交 通 西武バス「青葉園」

園内に3本の大きなフジがあり、年によって異なりますが、4月下旬頃、1~2ⅿの見事な花房が垂れ下がります。これらのフジは、昭和初期に北区宮前町、西区指扇、上尾市瓦葺から北区東大成町1丁目に移植され、その後、昭和40年に現在の青葉園に移植されたものです。

29 青葉園のフジ県指定 天然記念物 公 開

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�所在地 清河寺�交 通 東武バス「清河寺」

神明社のご神木として大切にされており、樹齢数百年と推定される古木ですが、樹勢なお盛んで高さ32ⅿ、幹回り8.5ⅿに及ぶ巨木です。ケヤキは「県の木」に指定され県内の代表的な樹木ですが、これほどの大きさのものは極めて少ないようです。

せいがんじ

30清河寺の大ケヤキ

県指定

天然記念物

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�所在地 植田谷本�交 通 西武バス「大宮光陵高校」

クスノキは常緑樹で年間を通して緑を保ち大きく枝を張り、外では見られない樹木です。全体に香気があり虫がつかないので、木製品に適しています。クスノキは、各地で植えられ大小様々ありますが、こちらのクスノキは植水地区随一です。

参考 樹高16ⅿ 枝張り 東西17ⅿ 南北14ⅿ(指定時)

31植田谷本のクスノキ

市指定

天然記念物

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�所在地 三橋�交 通 西武バス「青葉園」

青葉園内の飛び地の稲荷社脇にそびえる樹高10ⅿの古木で、樹勢はなお盛んです。幹の根元は空洞となっていますが幹は地上50㎝程のところで大きく3本に分岐し、根元に近い小枝の葉はヒイラギ特有のとげがみられますが、上部の葉は刺がなく楕円形を呈しています。ヒイラギも歳を経ると円満になるのでしょうか。稲荷社の回りだけは個人持ちですが、青葉園の開園時間内なら自由に見学することができます。

32三橋のヒイラギ

市指定

天然記念物

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�所在地 西大宮四丁目61-4�交 通 東武バス「高木」

高さ15m、胸高周囲4.53m、根回り7.4mあります。樹勢良好で、うねりのある樹幹、発達した地上根、照葉樹林に特徴的なドーム状の樹形を保っています。堂々として、均整のとれた古木です。

33 法光寺のシイノキ市指定 天然記念物 公 開

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�所在地 島根

足立新秩父観音霊場26番の札所となっていて、鋳造ながら細部についても精緻(せいち)な造りとして、美術的にもすぐれた作品とみられます。像や台座の背面に次の銘文が刻まれています。

延宝元年 武州足立之郡藤長 植田嶋根村

武州江戸住 作 奉 寄 進 念仏講中源重 道行卅九人

丑 願 主十二月吉日 円 良

江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によれば同寺境内に馬頭観音堂があったので、その本尊として安置されていたものと考えられます。島根村のほぼ全戸で講を結んでいたものとみられます。当時は村人の二世安楽を願って造立したものでしょう。延宝元年(1673)というと江戸時代の前期、四代将軍徳川家綱の時代に当たります。

34東光院銅造馬頭観音坐像

有形文化財

彫刻

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�出土地 宮前町�保管場所 市立博物館

西大宮バイパスの建設に際し、埋蔵文化財の事前調査を行いましたが、宮前ジャンクションより西側のNo.1から6までの遺跡から旧石器から縄文時代にかけての多数の遺物が発掘されました。特にNo.4遺跡からは黒曜石のいろいろな形状・用途の旧石器が出土し、ナイフ・ポイントなど驚くほどの豊富な遺物によって、当時の人々の生活の一端が知られるようになりました。

35 西大宮バイパスNo.4遺跡出土旧石器有形文化財 考古資料 公 開

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�所在地 宝来

徳川幕府によって編さんされた「新編武蔵風土記稿」によれば「元禄14年(1701)是心トイヘル僧コレヲ起立ストイフ」とあり、「足立新秩父観音霊場」の開設の時期が享保8年(1723)であることや無食供養塔の造立が元禄13年(1700)であることなどから、ほぼ肯定できます。お堂には如意輪観音坐像ならびに木造・銅造の観音像百余体が安置されています。ただ低地帯にあるため、洪水に際して流失したものが少なくないと思われ、当初の作例は一部しか残っていないと考えられます。これらの像は、西国・坂東・秩父を一堂に勧請(かんじょう)したもので、午年に開帳されます。

36福寿庵百観音

市指定

有形民俗文化財

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�所在地 指扇

赤羽根の台地の先端部に建てられた不動堂に安置され、現在、周辺地域の21軒で講を結んでいます。正面の急な石段のほか、ゆるい女坂の二つの参道があります。江戸時代に奥州出羽山から行者によって勧請(かんじょう)されたものと考えられます。赤羽根の荒沢不動石仏は、舟形の光背に右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持つ普通の姿を浮き彫りとしています。光背の上部に滝を、下部に波形を、さらに台石に向かい合った犬を表しています。出羽山荒沢の様子を表しているものとみられ、信仰の伝播(でんぱ)が考えられます。総高167㎝。

37赤羽根荒沢不動石仏

有形民俗文化財

赤羽村

(梵字不動尊)

大木戸村

カーンマーン

(不

像)

元禄十三

正月三日

下江村

施主貮拾人

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江戸時代には、各地に写しの観音霊場が開設されました。観音菩薩像は、いろいろな姿に変化し、基本的な「聖観音」をはじめ、「十一面観音」「千手観音」「如意輪観音」「馬頭観音」「不空羂索観音」「准提観音」などとして、姿形を表しています。仏教のうえでは、人は死後、六道に輪廻転生し、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄いずれかの世界に生きるとされています。西区内には江戸時代に設けられた二つの観音霊場の巡礼道がみられます。

38 西区周辺の観音霊場

(慈眼寺観音堂)

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(1)足立坂東観音霊場 元禄15年(1702)盛典開創

29 観音寺 聖観音 高木1671村雨を 慈悲木の下に 雨宿り

三影を頼む 四方の旅人

30 清河寺 千手観音 清河寺792いさきよき 清河寺の 流れこそ

くみて涼しき 功徳なりけり

31 妙光寺 千手観音 指扇1824智恵の日は 光り輝き 下郷を

唯一向に 照らし給へや

32 慈眼寺 千手観音 水判土462垢離とれば 身は水判土にうるおふて

慈眼の御手の みちびきぞ待つ

(高城寺観音堂)

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(2)足立新秩父霊場 享保8年(1723) 井上倫貞

23 永泉寺 十一面観音 三橋5-1244極楽の 内野と聞けば 頼もしや

誓いも永き 泉寺かな

26 東光院 馬頭観音 島根690東雲の 光りさやけき 島根村

月日の恵み 至る彼岸

27 高城寺 十一面観音 西遊馬229罪科も 消えて喜ぶ 遊馬山

高き城の 寺のいにしえ

28 明眼寺 聖観音 宝来南無大悲 導き給へ 明眼寺

普き光り 自他をもらさじ

29 福寿庵 如意輪観音 宝来1313百福の 妙なる恵み 宝来の

みずにうつろふ 慈悲の月影

31 善福寺 聖観音 峰岸峯に風 岸に弘誓の 船寄せて

善福寺にぞ 示現満します

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周辺地域では、元禄3年(1690)に埼玉郡龍華院の観照(かんじょう)によって、江戸時代はじめの写しの札所新西国ともいうべき観音霊場が開設されています。足立郡下日出谷知足院の盛典(せいでん)が、足立坂東観音霊場を設けています。自坊の観音堂を再建するため、近郷に喜捨を募っていた折、観照が開いた観音霊場に村人が喜々として巡礼しているのを知り、坂東の写しを開設すれば、すでにある秩父霊場と合わせて武蔵一国で百番の観音霊場を巡拝することができるとしたものです。そのような事情で最初は「武蔵坂東」と名付けていました。実際には33番のうち32番が足立郡内にあったため、後に「足立坂東」と改名したようです。観音霊場が33番となっているのは、観音が33のお姿に変化(へんげ)するという仏教の考え方が基本となっています。平安時代にまず西国霊場が設けられ、鎌倉時代に入り恐らく東国武士によって関東に伝えられ、室町時代になると秩父に広げられ、99番に1番が加えられて百番となったものと思われます。江戸時代に入ると江戸から秩父への巡礼の風が盛んとなり、順番を変更し百番目も秩父に位置付けられて、西国・坂東・秩父各札所における今日の順番が決まってきたのです。このような風習のなかで、各地に写しの札所が順次設けられ、中には一堂に百番を勧請(かんじょう)し、「百観音」あるいは「百体観音堂」などと呼ばれるお堂も設けられています。足立坂東は、下日出谷知足院を一番とし武蔵一宮境内の観音寺(明治の神仏分離に際し、日進の満福寺に移転されています)を33番としています。31番の妙光寺から32番の慈眼寺の間は、当時の道筋が残り、各所に遺存する供養塔に「観音みち」の道しるべが刻まれています。足立新秩父は、上尾市弁財の昌福寺を1番とし、同中分の東栄寺を34番としています。

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�所在地 西大宮1-34-5

この供養塔は、西区指扇の中郷薬師堂にある無食供養塔で、本塔と台座からなる石塔です。本塔には、金剛界大日如来と思われる座像が浮彫りされており、41名の法名・俗名、元禄十三年(1700)の銘、「奉造建大日如来石像毎月一日無食修行三年三月成就所」の銘文が刻まれています。無食供養とは、毎月特定の1日に食を摂らず仏名等を唱え精進し、現世安穏・極楽往生を願う民間信仰です。この地区の無食供養は、江戸時代中期に、指扇領別所の天台宗福正寺尊慶の弟子となり、地域に密着して活動した十誉是心という行者が、指扇及び馬宮地区の福正寺末寺の檀家に広めたもので、毎月1日に食を絶つ行を3年3か月の間行ったとされています。さいたま市は県内でも無食供養塔が集中してみられる地域で、その大半が西区指扇・馬宮地区にあり、その造塔期間は十誉是心の活動時期とほぼ重なっており、この地域に密着して活動した十誉是心の活動を伝える貴重な石塔群です。

39中郷薬師堂の元禄十三年無食供養塔

市指定

有形民俗文化財

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文化財見学時のお願い

○ほかの参拝者や見学者のご迷惑にならないように、マナーをお守りいただくようお願いします。

○許可なく個人の敷地内に入ることは絶対にしないでください。

文化財は、なるべく公開していただくように所有者にお願いしてありますが、中には秘仏の仏像のように公開されていないものやご開帳などで日時を区切って公開しているものなどがあります。また、信仰の対象になっていたり、個人宅にあるなど、いつでもだれでもが見学できるとは限りませんので、ご了承ください。

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文化財収蔵館 市内の博物館等もご覧ください。

さいたま市立博物館開館時間 9時から16時30分休 館 日 月曜日(休日を除く)、休日の翌日、年末年始(12月

28日から1月4日)※休館日は変更することがあります。

住 所 さいたま市大宮区高鼻町2丁目1-2電話番号 048-644-2322ファックス 048-644-2313

土器の館開館時間 9時から16時休 館 日 土曜日・日曜日・祝日・年末年始(12月28日から1

月4日)住 所 さいたま市大宮区高鼻町2丁目305-4電話番号 048-644-8131ファックス 048-644-8132

埼玉県立文書館開館時間 9時から17時休 館 日 月曜日、毎月末日(土日を除く)、祝日、年末年始(1

2月29日~1月3日)特別整理期間(春・秋10日間以内)

住 所 さいたま市浦和区高砂4丁目3-18電話番号 048-865-0112ファックス 048-839-0539

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西区に伝わる祭り囃子の多くは、江戸神田囃子の流れをくむもので、伝播・伝承過程でいくつかの流派に分かれ今に伝えられています。指扇地区には当地(木ノ下)出身の高野忠兵衛氏のあみだした木ノ下流の他に、阿弥陀寺流・深川流・穂積流があります。演奏は大太鼓、小太鼓2つ、笛、鉦(かね)の5人で構成されます。祭り囃子は笛のリードにより演奏され、静かな曲から賑やかな曲へと笛の合図で切りかわっていきます。また2つの小締太鼓は、微妙に音程が変えられていて、それぞれの太鼓を打ち分ける「からみ」とよばれる場面は、演者の腕のみせどころです。地域に伝わっている祭り囃子をじっくりと聴くのもお祭りの楽しみの一つです。

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◆上演期日・場所八幡神社の元旦祭、4月17日に八幡

神社の春祈祷、7月14日近くの日曜日に行われる八雲神社の天王様の祭礼、10月14日にお日待ちの秋祭り◆伝承と沿革文久年間(1861~1864)の頃飯田新田地域は開発が進み、それに伴い風紀

は乱れたと言われています。これを憂いた権現堂の住職が、五味貝戸に伝わる阿弥陀寺流囃子の師匠を招き若者達に囃子の指導をお願いしたのが始まりと言われています。明治の後期に囃子は低迷しましたが、大正時代に岡田源助氏らによって復活しました。昭和30年代までは、長男でなければ囃子はできませんでしたが、現在は地区の人であれば、年齢・性別に特に制限なく、後継者の育成に努めています。昭和50年に飯田新田囃子保存会となりました。

◆上演期日・場所1月元旦祭、7月中旬の日曜日八雲

神社の祭礼天王様、7月31日大宮夏祭り(こどもフェスタ)、8月の盆踊り・指扇まつり、11月西区ふれあいまつり◆伝承と沿革五味貝戸の囃子は、天保年間頃は阿

弥陀寺流を叩き隆盛を極め、飯田新田に教えたりして勇名を馳せていましたが、その後衰退し、一時は途絶える寸前までに至りました。明治初年、これを憂いた小島秋三郎氏らが木ノ下の高野忠兵衛氏から木ノ下流を習い、復活したと言われています。明治の末頃から大正にかけて、塚本、二ツ宮、土屋、宝来、本村、宿東間へと囃子を教えました。戦後しばらく下火になりましたが、池谷勝則氏によって復活が図られ昭和51年に現在の五味貝戸囃子連が結成されました。

2 五味貝戸の祭り囃子

伝承団体/五味貝戸囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇五味貝戸地区

1 飯田新田の祭り囃子

伝承団体/飯田新田囃子連(阿弥陀寺流)所 在 地/西区飯田新田地区

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◆上演期日・場所1月1日奉納囃子(高木氷川神社)、

7月14日に近い日曜日(夏祭り)、8月最後の日曜日指扇まつり(指扇小学校)◆伝承と沿革高木の阿弥陀寺地区には、江戸時代

の天明年間(1781~1789)に盛んであったと思われる阿弥陀寺の囃子がありました。昭和25年を最後に休止状態となりましたが、昭和54年に復活の話が持ち上がり、その後高木阿弥陀寺囃子連と改名し現在に至っております。昭和58年に子供囃子を発足し、地域の諸行事を盛りたて花を添えて参りました。地域の開発事業が完了し、そこに住む子供達が参加して、再び子供囃子が復活し活気を取り戻すよう努力して参ります。

◆上演期日・場所1月元旦囃子奉納、八雲神社・春と秋祭り、夏の天皇様祭り、薬縁堂縁日祭大宮駅西口夏祭り(子ども&フェスタ)、指扇夏祭り、別所八幡様秋祭り、栄中・高校文化祭、西区ふれあいまつり◆伝承と沿革中郷は明治初期に台村と合併して、中郷となりましたが、お囃子の歴史は古

く安永2年(1773)及び享和元年(1801)に祭礼を行った記録が残っています。戦後はお囃子が盛んになり、冬の期間、寒稽古と言って、夕方から27軒の家へ太鼓一式を持ち回りで、各家庭の縁側等で毎日練習に励み、川越の喜多町の山車に乗り、浦和の木崎、大宮の桜木町に頼まれて修行したそうです。そして昭和53年10月から木ノ下流継承の活動が始まり、2009年(平成21年3月)に中郷地域に、川越線・西大宮駅が開業し、笛や太鼓の音色と共に街の賑やかさが期待されています。

3 高木阿弥陀寺の祭り囃子

伝承団体/高木阿弥陀寺囃子連(深川流)所 在 地/西区高木阿弥陀寺地区

4 中郷の祭り囃子

伝承団体/中郷囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇中郷地区

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◆上演期日・場所1月3日金山神社奉納囃子、7月第2土曜日天王祭◆伝承と沿革当地の囃子は、戦時中、中断していまし

たが、終戦後いち早く後継者の育成にあたり、会員は一時は30名を数えました。その後は20年近くも後継者育成を行わなかったため、お囃子は衰退の一途を辿りました。平成に入り若手の有志が小学生の育成に着手、他地域から講師を招いて里神楽等の指導を受け、会員増強と内容の充実に努めました。平成15年、地元栄小学校の総合学習の時間で地域の郷土芸能を取り入れたいとの要望があり、3学期の間、週1回3年生にお囃子の体験授業を行うこととなりました。この活動は現在も続いており、3年生お囃子体験は栄小学校の伝統となっています。

◆上演期日・場所3月中旬春祈祷、4月・10月赤羽根氷川神社神楽奉納、7月中旬八雲神社祭礼(天王様)、8月指扇まつり◆伝承と沿革明治の初期、木ノ下の高野忠兵衛氏か

ら安藤初五郎氏や金井善助氏らが木ノ下流を習ったのが始まりといわれています。古谷本郷の八幡神社で寄せ囃子が参加した際、里神楽が無かったので、上尾市向山の“ヒョットコ八さん”なる人から里神楽を習い、各地で出演し好評を博しました。その証しとして現・指扇地区の村うちから、引き幕2帳(鶴と桜)を貰い現存しています。昭和3年頃、赤羽根の氷川様の1800年祭には、揃いの浴衣で囃子を叩きヤンヤの喝采を受けたりしましたが、最近では、後継者不足のため、児童に教え非行防止の一翼を担っています。

5 佐知川上の祭り囃子

伝承団体/佐知川上囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区佐知川上地区

6 下郷の祭り囃子

伝承団体/下郷囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇下郷地区

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◆上演期日・場所毎年正月2日地区内の獅子舞巡行、4月1日氷川神社の春祈祷巫女舞い奉納、7月中旬土曜日に行われる氷川神社夏祭り、天王様、8月に行われる盆踊り◆伝承と沿革西遊馬村氷川神社が現在地に遷座されたのは、寛永年間(1624~1644)で、その祭典で地元宿、東間、中野の若衆が、囃子を担当し、賑やかな屋台囃子と万灯で村中を練り回し、盛大だったと伝えられています。その屋台が、宿東間に引き継がれて、現在のもので4代目となります。その後、戦争のため囃子方も徴兵され、途絶寸前になりましたが、戦後、娯楽として各地で復活し始めたのを機に、昭和21年冬に再結成され、「宿東間囃子保存会」と改名し後継者育成に努めています。また子供達も意欲的に練習を重ね、夏祭りで活躍し好評を得ています。

◆上演期日・場所3月の春祈祷、7月天王様(山車引き

回し)、8月大宮氷川神社の例大祭、中山道まつり大門町の山車参加、盆踊り、10月お日待ち◆伝承と沿革伝承は明確ではありませんが、お囃子

の始まりは、明治の初めと言われています。祭り囃子の他に神楽囃子があり、二つの囃子が車の両輪のように活動してきました。明治30年頃が最も盛んな時期でしたが、神楽舞台の引幕等に江戸時代の人 の々名前が書かれていることから、神楽は江戸時代以前からの伝統があったことが伺えます。昭和25年の一の宮氷川神社において、近郷の17の市町村から囃子連が集まり、NHK主催によるお囃子コンクールが開かれ、清河寺が最優秀の栄誉に輝きました。今日にもその伝統の撥(ばち)さばきは堅実に継承されています。

7 宿東間の祭り囃子

伝承団体/宿東間囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区西遊馬宿東間地区

8 清河寺の祭り囃子

伝承団体/清河寺囃子神楽保存会(深川流)所 在 地/西区清河寺地区

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◆上演期日・場所1月元旦の巫女舞奉納、甘酒振舞、1月2日獅子舞巡行、4月春祈祷祭、7月天王様(山車巡行)、8月中山道まつり(吉敷町山車)、9月子供相撲大会◆伝承と沿革二ツ宮の地名は、ひとつの境内に氷川神社と八幡

神社が鎮座しているところから出た地名と言われています。二ツ宮囃子連の基礎は明治の初め頃、蓜島文蔵氏らが、木ノ下の高野忠兵衛氏の弟子で五味貝戸の小島秋三郎氏から木ノ下流のお囃子を習ったのが始まりと言われます。戦後復員した蓜島仁三郎氏ら数名が小峰伊太郎氏らの指導を受け、当時の若衆小峰晴吉氏の協力で引継がれました。昭和60年頃からは山車を新調し改良を重ねました。4,5年ごとに新人を募集し女性も増えてきました。また、大宮夏まつりでは吉敷町の山車に乗り、大宮氷川神社の例大祭にも参加しています。その他相撲部屋の祝賀会等にも遠征しています。

◆上演期日・場所1月2日町内を獅子による厄払い、3月神明神社の春祈祷、7月14日近くの日曜日に八雲神社祭り天王様◆伝承と沿革明治初年、文明開化によって人心が動揺し、酒や博打におぼれ喧嘩三昧の若者たちの姿をみた村役が、風紀の一新を図って、五味貝戸の木ノ下流囃子の師匠を呼んで習ったのが始まりと伝えられています。大正年間、里神楽の名人中島米吉氏が、熱心に里神楽を指導して囃子連に芸達者が頻出したと言われています。大正末期から昭和初期には、お囃子とともに里神楽も全盛になったと言われています。戦中、戦後は、祭典も縮小され、お囃子の存続も懸念されましたが、並木喜八氏、見川利作氏らによって復活、昭和52年に塚本囃子保存会が結成され現在に至っています。

9 二ツ宮の祭り囃子

伝承団体/二ツ宮囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区二ツ宮地区

10 塚本の祭り囃子伝承団体/塚本囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区塚本地区

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◆上演期日・場所1月氷川神社の初詣、元旦祭、正月の獅子巡行、稲荷神社の毘沙講、3月の春祈祷、夏祭り、盆踊り、敬老会、公民館文化祭◆伝承と沿革土屋の囃子連の起源は、明治初期と言

われ、浅草囃子が叩かれていましたが途絶えてしまい、明治37年頃五味貝戸より木ノ下流の伝授を受けて旧囃子を改称し、現在の木ノ下流となりました。明治の末、里神楽を習っていた時に作った面が現在残されています。戦争中はメンバーが減り一時中断しましたが、戦後若衆講で習うようになりました。夏祭りも復活し、昭和50年に「木ノ下流土屋囃子」として保存会を組織し、太鼓の教本を作成しました。小学生には、ひょっとこ囃子を教え、祭りの休憩の間に、披露しています。

◆上演期日・場所正月元旦宝来神明宮、5月10月春・秋

の神明宮祭礼、7月八雲神社の天王様、堀崎町夏祭り、8月大宮氷川神社例大祭、指扇まつり◆伝承と沿革宝来神明宮は寛文元年(1661年)に領主山内一唯公が宝来の地に守護神並びに宝来の平和を願って創設しました。神明宮には五穀豊穣、家内安全を祈願して演奏された地囃子があったと言われています。昭和に入って五味貝戸より木ノ下流を習って行うようになり現在の囃子になりました。戦後下火になった時期もありましたが、東京巣鴨や千駄ヶ谷に出向いて修業し練習を重ねて、さらに三橋の吉田栄一師匠より里神楽を習い、昭和48年頃より連続して大宮氷川神社の例大祭に参加、下町にて上演する等活発な活動をしています。

11 土屋の祭り囃子伝承団体/土屋囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区土屋地区

12 宝来の祭り囃子伝承団体/宝来囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇宝来地区

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◆上演期日・場所1月新年会、4月春祈祷、7月夏祭り、8月盆踊り、11月文化祭◆伝承と沿革内野本郷の囃子連は、地元の鎮守様

である八雲神社の牛頭天王を祀り五穀豊穣、家内安全を祈る天王社のお祭りとして明治中頃まで存在しましたが、日清戦争ごろを境に途絶えてしまったと聞いています。現在の囃子連は、昭和53年に再結成され木ノ下流の流れをくむ中郷地区囃子連に指導を受け教本を作成しました。小学生にはひょっとこ囃子を教え育み会員約15名で和気あいあいと活動しております。

◆上演期日・場所1月元旦祭、4月春祭り、7月天王様、

8月指扇まつり、敬老会、10月秋祭り(お日待ち)◆伝承と沿革穂積地区のお囃子は、その昔、寛文年間(1661~1673)山内一族が指扇領主となったその頃から既に地囃子を叩いて五穀豊穣、家内安全を祈念してお祭りを行っていたようです。大正の時期は木ノ下流を伝承していましたが、昭和の初期に一時期お囃子が途絶えそうになりましたので、当時の若衆、町田喜八郎氏らによって、清河寺の島村音五郎氏に指導を受け、現在のお囃子になりました。戦後は、囃子の修行のため、東京の花川戸、西巣鴨などにも出かけて修行したようです。平成になって、子供達が入会して大人達と一緒に毎週日曜日、穂積神社で練習を行っています。

13 内野本郷の祭り囃子伝承団体/内野本郷囃子保存会(木ノ下流)所 在 地/西区内野本郷地区

14 穂積の祭り囃子伝承団体/穂積囃子連(穂積流)所 在 地/西区穂積地区

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◆上演期日・場所7月中旬の日曜日八雲神社の祭礼天王様、8月の盆踊りと指扇まつり◆伝承と沿革木ノ下地区に伝わる祭り囃子は、幕末

から明治の初期にかけて地元の高野忠兵衛氏が当時の江戸神田囃子をベースにして創作されたと伝えております。また、それを地元大宮は勿論、川越、比企郡の川島、上尾、桶川等、近郷30ヶ所以上に伝授し、更にその先、子、孫へと伝承され今でも多くの地域で愛され演奏されております。約130年の歴史を持つ木ノ下流祭り囃子も、時代の変化や高齢化により減少しつつあり、後継者の発掘のため平成7年から地元自治会子ども会組織に協力を依頼し、週2回の練習を行っています。

15 木ノ下の祭り囃子伝承団体/木ノ下囃子連(木ノ下流)所 在 地/西区指扇高木木ノ下地区

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西区文化財ガイドブック発 行 日 初 版 平成19年3月発行

第四版 令和2年3月発行

発 行 さいたま市西区役所コミュニティ課〒331‐8587さいたま市西区西大宮3‐4‐2Tel :048(620)2620

編 集 さいたま市西区区民会議 歴史・文化部会編集協力・資料提供

さいたま市教育委員会文化財保護課さいたま市教育委員会市立博物館町田市立博物館

印 刷 関東図書㈱

この「西区文化財ガイドブック」は2,000部作成し、1部あたりの印刷経費は264円です。

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西区文化財マップ