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論文弘前大学経済研究第14 December 1991 15 世紀末プリユツへと世界経済 一一デスパルス商会の交易 一一 1 はじめに 15 世紀半ばから 17 世紀半ばに及ぶアナール派 のいう「長期の 16 世紀」の時期は,それに先立 つ中世経済の危機とその後の 17 世紀「全般的 危機」の時代,これら二つの不況と停滞の時代 にはさまれて,おおよそ好況期,経済の上昇局 面にあったとされている。り この時期は,従来, 中世から近代にかけての封建制から資本主義経 済への移行期として把握されているが,他面で は商業交易の中心地について,地中海商業圏 北ヨーロッパのハンザ商業圏の二つの中心から, 大航海時代の到来とともに,大西洋へと大きく シフトしていく時代であったととらえられてき た。そして同時に,それは,地中海商業圏のヴ ェネツィアとジェノヴァ,ハンザ商業圏のリ ュ ーベック,プリュッへなどの中心地が後退し, かわってアントウェノレベン,ルーア ン, リスボ ン,セヴィ ー リャといった大西洋側の市場都市 が興隆する局面でもあった。2 ) いわば「世界経 済」3 ) の中心的都市が,ヴェネツィアと プリュ 1 )アナール派による時期区分では,およそ1450 年ころか 1640 年ころ までが「長期の16 世紀Jとなる。またそれ とは別に M. ポスタンは, 1350 年から 1475 年ころ まで を 「不況期」としている。 アナーノレ派の時代区分について は, I. ウォーラーステイン,川北稔訳『近代位界システ ム』,I ,岩波書店, 1981 年, 101-102 ページ。 lWall 町田 stein, TheModern World-System, New York, 197 4, pp. 67-8. ただしウォ ーラーステイン自身の展望 はこれと全く同一ではない。この点,彼の TheModern World-System, II: Mercantilismandtheconsolt- tion of the EuropeanWorld-Econony, 1600-1750 New York, 1980 ,を参照。ポスタンについては, M. M. Postan, 'Thefifteenthcentury in : Economic HistoryReview (以下 EcHR と略記)9, (1939-9 ッへから,アントウェルベンとセヴィ ー リャに 移っていったのである。そして,地理的に相互 に近いプリュッへとアントウェルベンの聞の交 替は,のちの 17 世紀のアムステルダム市場が同 じネーデルラントに位置していたこともあって, 歴史家の関心をひくテーマであった。本稿では, 2 )この時代を「商業革命j CommercialRevolut10n時代として,ヨーロッ パの経済中心地の交替を論じたも のとして次のものを参照。大塚久雄『近代欧州経済史序 説』,初版 1944 年,弘文堂,同著作集, II ,岩波舎店, 1969 年。 F.Braudel, LeTempsduMonde( Ciuilisa- tion mate elle, economie et capitalisme, X Ve・ XVIIIesiecle, t. 3), Paris, 1979 ,の第 2 寧「 ヨーロッ パにおいて,古い経済から都市の優位へ グェネツィア とアントウェノレペンと」,それにアムステ/レダムを扱っ た第 3 章。さらに,ブロ ーデルの理解に挑戦してオラン ダの覇権の観点からこの時期の経済史の書き換えを意図 した斬新な歴史把握と して次のI. イスラエJ レの著作を参 照。 JI. Israel, DutchPrimacyin WorldTrade, 1585-1740, Oxford, 1989; do., EmpiresandEntre- pot -T heDutch, the anish monarchy andthe fews, 1585-1713, London, 1990.後者は論文集である。 3) 「世界経済J の成立は,一先ずヨーロ ッバ世界経済の 地球的規模への拡大という形をとった。この点,ウォ ー ラーステイン,前掲舎。 「世界市場の形成Jとい う観点 16 世紀から 19 世紀にかけて追跡したものと して次の著 作がある。松井透『世界市場の形成』,岩波書店, 1991 年。 「世界経済Jの形成のプロセスをどう辿るか,そして いかな る形で成立した といえる のか,これを「ヨーロ ッ バ世界経済」の形成という観点に立って立論するとして も,研究の現状では不十分であり,ウォ ーラーステイン にしても成功しているとは言いがたい。いずれにしても 実証的側面からのパ yクアップがなければ果たせないこ とである。この点で, 15 世紀のポルトガJ レの海外経民地 活動と西欧経済との関わり,ここでのプ日ュ yへ市場, 次いでアン トウェルベン市場との関係は考慮すベき重要 な論点を提示しているように思える。少なくとも,大航 海時代の開始期をコ ロンプスのアメリカ発見から始める ような粗い議論ではこの問題に接近することは難しいで あろう。この点, Hans Pohl, ed., The Euro ρ ean DiscoveryoftheW m ldand its EconomicEffects on Pre-Industrial Society, 1500-1800 (VSWG -50

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〔論 文〕 弘前大学経済研究第14号 December 1991

15世紀末プリユツへと世界経済

一一デスパルス商会の交易 一一

中 沢

1 はじめに

15世紀半ばから17世紀半ばに及ぶアナール派

のいう「長期の16世紀」の時期は,それに先立

つ 中世経済の危機とその後の17世紀の 「全般的

危機」の時代,これら二つの不況と停滞の時代

にはさまれて,おおよそ好況期,経済の上昇局

面にあったとされている。り この時期は,従来,

中世から近代にかけての封建制から資本主義経

済への移行期として把握されているが,他面で

は商業交易の中心地について,地中海商業圏と

北ヨ ーロッパのハンザ商業圏の二つの中心から,

大航海時代の到来とともに,大西洋へと大きく

シフトしていく時代であったととらえられてき

た。そして同時に,それは,地中海商業圏のヴ

ェネ ツィアとジェノヴァ,ハンザ商業圏のリ ュ

ーベック,プリュッへなどの中心地が後退し,

かわってアントウェノレベン,ルーア ン, リスボ

ン,セヴィ ー リャといった大西洋側の市場都市

が興隆する局面でもあった。2) いわば「世界経

済」3) の中心的都市が,ヴェネツィアと プリュ

1)アナール派による時期区分では,およそ1450年ころか

ら1640年ころまでが「長期の16世紀Jとなる。またそれとは別に M.ポスタンは, 1350年から1475年ころまでを「不況期」としている。 アナーノレ派の時代区分について

は, I.ウォーラーステイン, 川北稔訳『近代位界システム』,I,岩波書店, 1981年, 101-102ページ。 lWall町田

stein, The Modern World-System, New York,

197 4, pp. 67-8. ただしウォーラーステイン自身の展望

はこれと全く同一ではない。この点,彼のTheModern World-System, II: Mercantilism and the consolt-dαtion of the European World-Econony, 1600-1750

New York, 1980,を参照。ポスタンについては, M.M. Postan, 'The fifteenth century’, in : Economic

History Review (以下EcHRと略記)9, (1939-9)ー

ッへから,アントウェルベンとセヴィ ー リャに

移っていったのである。そして,地理的に相互

に近いプリュッへとアントウェルベンの聞の交

替は,のちの17世紀のアムステルダム市場が同

じネ ーデルラントに位置していたこともあって,

歴史家の関心をひくテーマであった。本稿では,

2)この時代を「商業革命jCommercial Revolut10nの

時代として,ヨーロッパの経済中心地の交替を論じたも

のとして次のものを参照。大塚久雄 『近代欧州経済史序説』,初版1944年,弘文堂,同著作集, II,岩波舎店,1969年。 F.Braudel, Le Temps du Monde( Ciuilisa-tion mate門elle, economie et capitalisme, XVe・

XVIIIe siecle, t. 3), Paris, 1979,の第2寧「ヨーロッ

パにおいて,古い経済から都市の優位へ グェネツィアとアントウェノレペンと」,それにアムステ/レダムを扱っ

た第3章。さらに,ブローデルの理解に挑戦してオラン

ダの覇権の観点からこの時期の経済史の書き換えを意図した斬新な歴史把握と して次のI.イスラエJレの著作を参照。 JI. Israel, Dutch Primacy in World Trade, 1585-1740, Oxford, 1989; do., Empires and Entre-

pot-The Dutch, the sρanish monarchy and the

fews, 1585-1713, London, 1990.後者は論文集である。

3) 「世界経済Jの成立は,一先ずヨーロ ッバ世界経済の地球的規模への拡大という形をとった。この点,ウォーラーステイン,前掲舎。 「世界市場の形成Jという観点で16世紀から19世紀にかけて追跡したものと して次の著

作がある。松井透 『世界市場の形成』,岩波書店, 1991

年。「世界経済Jの形成のプロセスをどう辿るか,そして

いかなる形で成立したといえるのか,これを「ヨーロ ッバ世界経済」の形成という観点に立って立論するとしても,研究の現状では不十分であり,ウォーラーステインにしても成功しているとは言いがたい。いずれにしても実証的側面からのパyクアップがなければ果たせないことである。この点で, 15世紀のポルトガJレの海外経民地活動と西欧経済との関わり,ここでのプ日ュ yへ市場,次いでアントウェルベン市場との関係は考慮すベき重要な論点を提示しているように思える。少なくとも,大航海時代の開始期をコ ロンプスのアメリカ発見から始めるような粗い議論ではこの問題に接近することは難しいであろう。この点,Hans Pohl, ed., The Euroρean Discovery of the Wm ld and its Economic Effects

on Pre-Industrial Society, 1500-1800 (VSWG

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15世紀末プリュツへ市場と世界経済

このうち比較的研究の手薄なプリュツへ市場の

について,15世紀末にその地を舞台として活躍

したデスパルス商会(Despars) の交易活動を

0.ムスの論文を紹介しつつ考察することにす

る。対象とする時代は,1480年代から90年代に

かけてである。5〕

2. ブリュッへ市場の繁栄とその衰退

ブリュッへが「中世の世界市場」と して最も

繁栄したのは14世紀前半の こと であったとされ

ているがw 影響力は弱まったものの15世紀にお

いても未だヨーロッ パの経済中心地の一つに留

まっていた。の ところでこのブリュッへ市場に

ついては,16世紀のアントウ ェルベンと比較し

て, とりわけヨ ーロ ッパ「世界経済」のなかに

おける位置づけ,交易構造の実態の解明につい

て研究が進展していない。この第 2節では,現

在ブリ ュッへ市場について最も包括的でスタン

ダー ドな展望を与えてくれる J.A.ファン ・ハ

ウテ VanRoutteの研究を中心にしてこの市場

の繁栄と衰退について一瞥を与えておくことに

したい。7)

それほど深い吟味もなされないまま長くプ リ

ュッへ市場は,ヨ ーロッ パの中世経済において,

「世界市場」(Weltmarkt, marcM-monde)と

して把握されてきた。その典型は, F.レー リ

ヒ (F.Rorig)である。彼は『中世の世界市

Beiheft 89), Stuttgart, 1990にはやや不満が残るロなお,次の研究を参照。 JA. Van Boutte et E. Stols, ‘Les Pays-Bas et la "Mediterranee atlantique" au

XVIe siecle’,in: Melanges en l' honnettt de Fern-

and Braudel, 1 ; Histoire economique du monde mediterraneen 1450 1650, Toulouse, 1973.

4)プリュッへ市場の研究は日本では数少ないが,ヨーロッパにおいてもアントウェJレベン市場に比べるととの印象が強い。文献については,次節の注7),8)を参照。5)この時代についてアントウェノレペン市場の興隆という観点から論じたものとして次の剣稿を参照。 「国際商都アント ウェJレベンの興隆一一繁栄の契機をめぐってj

『一橋論叢』,75-2(1976年)。また,総合的把握を試みたものとして次の著作を参照。 『アントウェ/レペン国際商業の世界』,同文舘,近刊。6) ]. A. V叩 Hou仕e,'The rise and decline of出e

market of Bruges', in: EcHR, 2nd ser., 19 (1966-

67).

場』と題した書物でプリ ュッへを「世界的取引

市場」と論じている。8) プリュッへの歴史は西

暦 900年ころ建てられたフランドル伯の砦の傍

らに形成された都市集落にまで遡る とい うが,

12世紀以後「ツヴィン Zwin」と呼ばれるよ う

になる海の侵入によって出来た湾の奥に人々が

定住した という。この水路には二つの支流があ

るが, 東側のダム (Damme)との間にある水路

がツヴ ィンとして呼ばれるようになった(地図

参照〉。9〕こうした位置から して,プ リュッへ市

7)ファン ・ハウテの主な研究として注6)に上げたもの以外に以下のものがある。 ‘Lagenese du grand marche

international d’Anvers a la fin du moyen age', in:

Revue beige de Philologie et d’histoire(以下 REPHと略記), 19 (1949);,‘Bruges et Anvers, marches

((nationa山》OU 《internationaux≫ du XIV an XVIe

siecle’, m Revue du Nord, 34(1952); 'Le prob!色me

du d岳dinde Bruges et de l’essor d’Anvers clans

l’historiographie belge (XVIe -XIXe siecles)’,

in: SciniunτLovaniense, Melanges historiques,

his to円scheopstellen Etienne Van Cauwenbergh,

Louvain, 1961; ‘Anvers aux XVe et XVIe 引をdes.

Expansion et apogee’, in: Annales. Economies,

Socie tes, Ci叩 ilisations,16 (1961); Bruges. Essai

d’histoire u1baine, Bruxelles, 1967; An Economic

History of the Low Countries, 800-1800, Bussum,

1979; De Geschiedenis van Brugge, Tielt, 1982:,この他,彼の論文集として,Essayson Medieval and Early Modern Economy and Society, Leuven, 1977

があり,これに彼のそれまでの業績目録が付せられている。なお,1979年の著作は,1977年の英語本のオランダ

li!fl仮である。8) F.レーリヒ 『中世の世界市場』,瀬原義生訳,未来干土,1969年,68ページ。プリュ yへの「中世の世界市場」という表現は,筆者の知見では,現在のところ次の古典的著作に負うところが大きいようである。 R Hapke,

Briigges Entwicklung zu問 mittelalterlichenWei-

tmarlzt, Berlin, 1908.ただしこの本の主題はill;界市場への発展であり,年代的にも衰退期は扱われていない。H. Van W erveke, Bruges et Anvers. Huit siecles

de commerce flamand, Bruxelles, 1944, p. 20. で

も,プリュ yへを「中世の世界市場Jと表現している。また,先に示したブローデルもプリュ yへを中世の「世界市場Jとみているが,そのトーンは落ちている。 「それはすでに世界市場であったが,しかし世界の中心に位置した比類のない太陽という意味での世界都市にはなりきらなかった。」「ブリュツへはイングランドからパルト海に及ぶ広大な北欧の,たしかに最も重要ではあったが,一つの会合地でしかなかった。JBraudel, op. cit., p. 82.

9)地図の出典は次の文献ふ R. Doehaerd, 'Handelaars en neringdoenden. I. De Romeinse tijd en de mid-

deleeuwen' in: Flandria Nostra. Ons land en ons volk zijn Standen en beroeρen door de tijden heen, I, Antwerpen-Brussel-Gens-Leuven, 1957, biz., 377.

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12・13世紀のブリュ ''lへの水路関係図 ’

(.!!_amine Moeikerke Q~~』.

Y勿沿~も

場は当初から外海との船舶の航行で悩みを抱え

ることとなった。水路の土砂による埋没という

問題がそれであり,プリュッへの衰退の原因と

して論じられてきた。ところで,プリュッへは

1284年にフランス王領に併合されて表えたシャ

ンパーエュの大市の跡を継ぐ形でヨ ーロッパ経

済の結節地になっていったが,外来商人をその

地に引きつけたのはドイツ,つまりハンザとイ

タリア商人の存在であった。おそくも1277年に

はジェノヴァのガレ一般がツヴィンに来ていた。

そして,14世紀の前半には,その地にイギリス

の羊毛ステーフ。ルが置かれ (1325-26年,1340

-48年, 1349-52年〉,イタリア商人もここにサ

トウキピ,絹,ビロード織等をもたらした。イ

タリア商人はその政治的状況に応じてプリュ y

へにそれぞれ独自の特権を持つコロニー (居留

民族団natie,nationと呼ばれる〉を組織してい

た。イベリア半島からも,オリープ油,イチジ

ク,砂糖,そしてそのアフリカ西岸探検の進展

とともにギニア産香料(マラゲッタ〉や象牙が

もちこまれた。カスティ ーリャからは次第にイ

ギリス羊毛に代わってカスティ ーリャ産羊毛が

フランドルの毛織物工業にこの市場を介して供

給されるようになった。とはいえ,来往した商

人の数と取引量において最も大きな比重を占め

たのはハンザ商人であった。その取引品目も多

様であった。ケルンからはラインのワイ ン,喜夫

製品,ウエス ト・フアリアの亜麻布,プレーメ

ンのピール, リューネプルクからは塩,そして

メクレンプルクからポーランドにわたる広大な

沃野の穀物,カルパチア山脈の鉱物資源,さら

にロシアからは木材製品,皮革, 嫌,スウェ ー

デン産の銅と鉄,スカニアのニシンとノルウェ

ーのタラ等がもたらされたので、ある。ハンザは

ここで塩漬け魚を作るために塩とワインを調達

した。ハンザの商圏は広大なものであったが,

周知のように4つの商館を拠点として営まれた。

それはノヴゴロド,ノルウェーのベルゲン,ロ

ンドン,そしてプリュッへにあった。ハンザが

フランドルとプリュッへに圧力をかけて特権を

拡大する武器は通商停止であり,それは一時的

な商館のプ リュ ッへ退去に至る こと もあった。10)

ファン ・ハウテは,ブリュヅへ市場の「世界

市場」としての性格とその衰退について独自の

展望を示した。それまで中世の「世界市場」と

されてきたプリュッへについて,これをその輸

入品が主に人口調密な後背地フランドルに向け

られたものであるという意味で「地域的」市場

であり,また輸出品としてもフランドルの毛織

物が最も主要な内容を構成したといってレる。

後期中世という時代的限定をした上でではある

が,彼は, 「既知の全世界の産物をその地にも

たらした商人のコロニーがブリ ュージェに同時

に存在することが,このフランドルの都市が一

種の経済の会合舞台,つまりそこで外国商人が

積極的な交易において相互に接触する中世末期

の『世界市場 marcbemondialJ],とくにそこ

で地中海の経済的複合体と大西洋,並びに北欧

の海のそれとの接触が果たされる場であったと

10)以上,主に, Van Werveke, op. cit., p. 27; Van

Houtte, An Economic History of the Low Coun・ tries, pp. 99-100. プリュyへへの外海との水路の埋没

と航路の確保はそれ自体一つの研究テーマとなるほど微

妙で複雑な問題である。

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15世紀末ブリュッへ市場と世界経済

考えさせる」。しかし, 彼は史料に即した研究

はこうしたプリュツへ市場像を疑わせる,とい

うのである。川、そして,プリュツへはこの時期

たしかにツヴ ィンの土砂による埋没化が進展し

ていたが,それはプリュツへ表退の決定的理由

て、はなかったとする。土砂埋没は経済力によっ

て法諜可能なものであり,その意味で衰退の原

因はブリ ュッへの経済力,とりわけ外来商人を

引きつけてきた毛織物工業そのものの停滞と衰

退であったと結論づけるのである。12)

ともあれ,われわれはデスパルス兄弟が活躍

する以前の1475年ころ,プリュッへの商人がア

フリカ ・ギニアに向かっている事実を知ってい

る。ギニア湾のミナ (Mina)でモンス(Mons,

オランダ名ベルゲンBergen)出身のエウスター

シェ・デ ・ラ ・フォス(Eustachede la Fosse)

は,フランドルの商品を直接アフリカ市場で売

り,金やマラゲッ タを購入する住事に従事して

いた。彼が当時スペイン領であったリオ・デ ・

オロの海岸でプリュッへのある商人が難破して

いたというのである。13)

11) Bruges. Essai d’histoire urbaine, pp. 67 68. 1977

年刊行の 『低地諸邦経済史』になると叙述は微妙に変わってくる。 「アフロカとアジアが地中海を経由してヨーロッパと結びついたために,様々 な地域から来た非常に多数の商人が同時に(そこに) いることが,プリュージュをして 『世界市場』,つまりヨーロッパ各地と旧世界全体をも含む会合地点にしたのだと考えられてきたJと述べている。 An Economic History of the Low Countries, p. 101.

12) Van Routte,‘Bruges et Anvers,, ‘Anvers’.プリユツへの衰退についての次の文献も参照。 M. K. E. Gottschalk,‘日批判rval van Brugge als wereld-

mar kt’, in: Tijdschrzft voor Geschiedenis, 66(1953)-

13) J. Denuce, Afrika in de XXle eeuw en de han-del van Antwerρen, Antwerpen, 1937, biz. 36 note

1. このある商人とは, 0.ムスによると トーマス・ ペロット ThomasPerrotである。ムスは,ペロットの樋民地交易はもっと以前,1470年ころまで遡ると推測している。 O.Mus,‘DeBrugse compagnie Despars op het

einde van de 15e eeuw’in: Anna/es de la Societe d’Emulation de Bruges (以下 ASEBと略記), biz.

92--93.この他に,].W_ Blake, European Beginnings in West Africa 1454-1578, London, New York,

Toronto, 1937, pp. 58-59. さらにファン ・ハクテによれば, 1475年ごろプリ ュッへへの商人でモロッコ,さらにはアフリカ ・ギニアにまで金と象牙を求めて船を出した者がいるという。 De Geschiedenis van Brugge, biz. 180.

3.デスパルス商会の組織と交易活動

0.ムスの「15世紀末プリュ yへのデスパノレス

商会」14〕は,この時代のプリ ュyへの海外交易活

動をプリュッへ商人の活動について扱った数少

ない論文である。ヴァスコ・ダ ・ガマのイン ド

航海 (1497~99年〉によってヨ ーロ y パのアジ

アへの直接航海が切り聞かれるが,この直前の

1480年代から90年代にかけて,デスパルス商会

は,主にポルトガノレのリスボンとの交易におい

て顕著な活躍を記録に留めている。ポノレト ガル

の植民的物産をブリ ュッへに送り,その見返 り

として毛織物や金物をボル トガルに送付する交

易のパタ ーンは,15世紀の最末期から16世紀初

頭にかけてその担い手を変えてそのままアント

ウェルベン市場においてニコラス ・ファン ・レ

ヒテルヘン NicholasVan Rechtergen,次いで

その後継者であるエラスムス・スヘッツ Eras-

mus Schetzに引き継がれる香料対銅交易のあ

たかも前史をなすかのようである。15)この第 3

節では,以下主にムスの研究によりつつ,デス

パルス商会の活動を分析するこ とによって, 15

世紀末のプリュッへ商人の足跡を追うことにす

る。この節では,テ.スパノレス商会についての概

括的な検討と1480年代半ばのプリュッへのハプ

スプルク家支配への反抗(後述〉に至るまでの

時期について扱い,ブ リュッへの反抗とその後

のデスパルス商会,並びにその経済史的位置づ

けについては第4節で検討することにする。

〔デスパルス家〕 ムスが依拠した史料はプリ

エツへの市古文書館に所蔵されていて, 130枚の

フォリ オからなり,年代的には1478年から1499

年までのものである。 フォリオは20の冊子に績

じられているが, 5つの冊子が紛失している。

デスパルス商会の活動を担ったのは,ヤン

14) 0. Mus,‘De Brugse compagnie Despars’,m:

ASEB, 101 (1965).

15)ファン・レヒノレへンとスへyツについては未だ不十分であるが次のもので論じた。中沢勝三「アントクエノレベンの興隆と銅=香料交易」 『文経論叢』(弘前大学), 14-5 (1979)。

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Jan,ヤコプ Jacob,それにウォウテル Wouter

の3兄弟であるが,かれらの父マルク Marcは

1477年に死去している。ところでこの商会の交

易活動の主な分野はブリュッへとリスボン聞の

南欧交易であった。この商会の名称は1490年の

時点で 「リスボン商会 onseCompagniea Lix-

bone」といったが,それでも対ポル トカ網ル以外

の地域との取引を排除していたわけで

Tこ。ポルトガルとの交易では次の商品を主に扱

った。砂糖,オリ ーブ泊,糖蜜,南欧果実(イ

チジクとレ ーズン〉,次いで大青(染料)と穀物

である。なかでも砂糖が重要であったが,これ

とオリーブ油,糖蜜,南欧果実,大青がこの商

会によってほぼ一貫して扱われた商品である。

1485年から86年にかけてのように,砂糖の価格

が暴落したときはデスパルス商会は取り扱い商

品を大菅に切り換えた。また, 1489年から90年

にかけてのように,政治的状況によって食糧の

収穫が悪化した折りにはノルマンディーからの

穀物の運輸に従事した。

〔ポルトガルの主要輸出品〕 最も重要な商品

は糖蜜を含む砂糖であった。その産地がどこで

あったかは,史料に 2度 eyland 「島」と言及

されている以外は記されていなし、。ムスによる

とこの島とはマデイラを指すことは明らかであ

る。マデイラ島からの砂糖の輸入は発展しつつ

あった。砂糖の生産は地中海東岸からシチリア

を経て,そこから主にヴェネツィア経由で西ヨ

ーロッパに広まったといわれているが,マデイ

ラが砂糖栽培で発展の局面を迎えるのは1450年

ころからの事であった。いずれにしてもスペイ

ンに代わってマデイラ産の砂糖が西ヨ ーロッパ

の砂糖市場を支配するようになった。この砂糖

がフランドル,すなわちブリュッへに輸出され

るようになったのは1468年のことであった。ム

スは,このような新しい商品の流れをデスパル

ス商会が利用して発展したという。オリープ油

は,史料で産地が言及される場合には常に 「リ

スボン ・オリ ーブ泊」と記されている (1例セ

ヴィーリャ ・オリープ油がある〉が,このオリ

ーフ’油はポルトガルもしくはモロッコ産のオリ

ーブを原料として生産されたものである。さら

に南欧果実であるが, これもボルトカワレ産,な

いしはスペイン南部の産である。これらの果実

がボルトカ‘ルを経由してそこからプリュッへに

輸出されたので・あるが,15世紀半ばにおいてボ

ルトカツレの本格的な砂糖生産と植民地交易の進

展以前の時期の最も主要な輸出品であったとい

う。ムスの論文では, 「デスパルスの輸入した

商品の最大の部分はポルトガル産であった」

(blz. 25)1めといっているものの,残念ながらこ

れらの品目それぞれの価値額,その割合,年代

j願の推移についての統計的な数値は示されてい

ない。

〔会社組織,取引の方法〕 デスパルス家はブ

リュッへとリスボン聞の交易をどう橋渡しし,

そこでの買い付けをどう管理し資金をどう調達

したのか。この点,史料の制約によって充分解

明し難いとしながらも,ムスは次のように分析

している。海外交易の組織はヤ コプとウォウテ

ルの共同出資(パートナ ーシップ vennoots-

chap)であった。デスパルス商会の対ポルトガ

ノレ交易の最初の局面は1477~78年に始まったと

されるが,これは1477年 3月13日の父マルクの

死去によるとし、う。二人の兄弟の最初の積み荷

は1478年 1月に持ち込まれた。 5人の兄弟のう

ち, 2人は夫逝していた。ヤンは結婚して1474

~75年にはプリュッへの参事会員になっている。

ウォウテルも1478~79年にはプリュッへ参事会

員になっており, 彼らが南欧との交易を開始す

るに当たって既にかなりの資産を蓄積していた

ことが推定される。 1478年の時点で,ヤコブが

34歳,ウォウテルが23歳で‘あった。ムスは,こ

の南欧交易開始以前にすでにヤコブは父の代理

としてスペイン ・ボルトカツレに滞在した経験が

あったという。マルクの死に際しての遺産分割

の方法は不明であるが,ヤコプとウォウテルが

相続したと考えられる。ムスは,デスパルス商

会は一種の家族ノξー トナ ーシップ(familie-

vennootschap)によって組織されていたと考え

16)以下ムス論文のページをこのように表記する。

-54-

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15世紀末プリュッへ市場と世界経済

る。ヤ コプとウォウテルの関係はヴェネ ツィア

のフラテルナ(fraterna)に近いものであった

と考える。このフラテルナとは,同一家族の成

員が取引を行うために,全ての動産と不動産を

共同使用するものであった。何れにしても最初

の段階においてはウ ォウテルはブ リュッへに不

在であったら しい。17)その代わりに彼の義兄弟

のヤン ・デ ・フレ ーシオウアー(Jande Vlees-

chouwer)が登場してくる。 この人物は1478年

のフ’ルヘン・オプ ・ゾームの復活祭市場のと き,

ヤコブの商品である砂糖を販売している。とも

あれヤコブは,1478年の初めに 450アロベン18)

の砂糖をポル トカゃルから ブルタ ーニ ュ船で買い

付けた。 さらに彼は綿織(goudlaken)をスペ

イン羊毛と交換し,これを毛織物と引き換えに

ブリュッへとベル(Belle)の毛織物商人に販売

した。彼はこの毛織物商人に羊毛を加工し原料

を購入するために貨幣を貸し付けている。 これ

らの輸入は,外国市場向けのものであった。 こ

うしたヤコプによるプリュッへとポルトガルと

の聞の結びつきは国際情勢の悪化とフラ ンドル

の経済状況によ って突如中断される。 1475年か

ら77年にかけてのスペイン継承戦争に伴うポル

トガルのアフォンソ 5世のカスティ ーリャ侵入

とフ ランス艦隊のイベリア半島北岸および南岸

での展開があったが,これは一先ず講和に到っ

た。 しかしまた1479年 3月海上での戦争が再開

され, 1480年まで続く。そしてこうした国際政

治情勢とは別に,砂糖価格の低迷が販売に大き

な影響を与えた。1478年初めにポンド当たり 4

5/12gr. であった砂糖は3~4月には5,ある

いは 5l/2gr. に上昇したものの,1479年初め

に急速な低落を経験し, 4 1/2gr. にまで下が

ったのである。 こうしたことから,ムスは,デ

スパルスがいわば好況期で、ある1478年の初めに

砂糖の取引を至ったことが決して偶然でなかっ

17)ムスは,ウォウテノレのこの時期の不在について, 都市参事会での汚職と関係があったかもしれないと推定しているが,根拠を示していない。

18)アロベ arrobeはポルトガノレの重量単位で約13から14キログラムに相当するという。 Mus,biz., 19, note 57.

キストkistは車:(]52キログラム。

たとい うのである。

こうしてデスパルス商会の本格的な設立は

1480年後半におけるヤコブのポルトガルへの出

発と ともに始まることになる。ヤコフeはポルト

ガルにウォウテノレとともに渡り, 1481年の半ば

ころ砂糖,糖蜜,それにオリーフ.泊を持って帰

国する。ウォウテルはポル トガルに留まり そこ

からヤコプに商品を送る ことになる。

デスパルス商会の体制はこのようにして整っ

た。プリュッへにヤコプがおり, ポノレトガノレに

はウォウテルが滞在して, これら二人の兄弟の

聞の関係が商会としての名を持つ。テスパルス

商会への二人の出資額と比率は不明であるが,

ムスはこの新会社が以前のフラテルナの後継で、

あったことは明らかだという 。しかしこの二人

のパー トナーで海外交易を行 う資本は調達する

ことができたのか。 この問題に対してムスは十

分な答えを引き出しているとはいえないが,ヤ

コブは資本を全て投下せず(つまり 留保して〉,

残りの資金で手がけているといっている。そし

て会計記帳の旧いやり方と,それにともなう海

外交易管理の不十分さによって,ヤコプは信頼

できる人物を現地におく必要があり,そのため

ウォウテルがポルトガルトにいなければならか

ったといっている。 しかし,次の二つの点でこ

の商会はイタリアの商会とは違っていた。 一つ

は,ヤコブは決してこの商会の代表として外部

に対して登場することがなく,常に個人の名前

で‘出ていたということ。もう一つはこの会社に

は総括的な会計がなかったということである。

ブリュッへはブリュツへで, ポル トガノレはポル

トカ余ルで、それぞれ処理されていたらしし、。ヤコ

ブは,到着した積み荷を自身の計算で受領し,

これを幾らと規定して彼が会社に払い込む。ウ

ォウテルはヤコブにウォウテルに所属するオリ

ーブ油を送る。ヤコブはさらにこれとは別に会

社と関係のない商行為を行った。これを禁止し

ても本来この商会はブリ ュッへとポルトガル

との聞の距離を橋渡しする目的で設立されたも

のであるがために, 何ら意味のないこととなる。

こうして,二人の残りの資本は会社の事柄とは

- 55ー

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別の商行為に投資されることになるのである。

ーヤコプはプリュッへで砂糖,糖蜜などクォ ウ

テルがポル トガルから送付した物を販売した。

しかし, 彼がこの取引にどれだけ資金を使った

か,言い換えま:LばウォウテJレがこれらの商品を

購入するのにどれだけ必要な資金を獲得したか

が史料のどこにも記されていないという。 ポル

トガルにいる者も プリュ yへ滞在中の者につい

ても, ポル トガノレ人への支払いについてはその

痕跡がある。ところがウォウテルに対する支払

いについての言及は一切なL、。ヤコプは別の取

引も行っていた。つまりネーデルラントでの商

品の購入である。品目は以下のよ うである。 プ

リュッへ, ベノレ(Belle), へント, メーネン

(Menen), メーセ’ン (Mesen), アノレマンテ

ィエーノレ, ローゼレール(Roeselare), イーペ

ルなど各地の毛織物,サーイ織,タピス トリー,

銅製の リング,ファスチアン織,帽子などであ

る。さらに, これらの商品はフランドル市場を

目的として購入されたものでなく,ポルトヵ:ル

向けのものであったという。ムスは, 「これら

の商品でヤコプはウォウテルの購入に資金を提

供していたのであり,そこには何らの資本移転

(overheveling)はなかったのだ」と言い切る

(biz. 42)。つまり先に述べたことと の関わりで

これを整理すれば,ヤコブはウォウテルに対し

て商品現物の提供という形で資金を供与したの

だとい うことになる。

ムスは,デスパルス商会の特質を当時のイタ

リアよりもハンザにより親近性を持つものとし

てとらえる。会社についての 「相互性に基づく

遠隔地会社(Ferngesellschaftauf Gegensei-

tigkeit)」 はハンザにおいても存在したという。

デスパルス商会の存続は二点聞の交易によって

可能となったので、あり,それは「外に向かつて

は二つの会社として」立ち表れる ことになる。

ムスによるとh こういう形態はプリ ュッへの商

業世界においてデスパルス商会に限られること

はなかったという ρ 詳細には触れていないが,

《彼はそれを示す事例としτ’‘ヘンドリッグ ・ニ

戸ーラント ,(HendrikNieulan,t心とヤコブ ・

ロムバル ト(JacobLombarts)の例を上げてい

る。19)こうしてムスは,デスパノレス商会の取引

.の基盤を兄弟の一方が他方の利益のために行う

委託交易であったと結論する。

〔デスパルス商会の第一期〕 以上がデスパル

ス商会についての概括部分についての紹介であ

るが,ムスはこの論文で三つの時期に区分して

この商会の発展を追う。第一期は,1480~81年

から1486~87年,第二期は1487年から1491~92

年,そして第三期は1496年から1500年までであ

る。この持代区分のクリテリアは,当時の時代

状況によるものであるというが, 1492年から96

年までの空白は史料の欠如によるもので,また

1500年を終末時期としているのはヤコプの死去

(10月1日〉によるものである。

第一期においてこの商会の対ポルトガル交易

の基礎が作られた。ここに二人の人物が登場す

る。ジ ョアン ・エスメラルド (JoaδEsmeraldo)

とアンプロシオ・デ・ガピオ(Ambrosiode

Gabio〕である。名前から二人ともポルトガノレ

出身者と推定される。ムスはこのう ちエスメ ラ

ルドについて,マデイラ島での砂糖プランテー

ションを経営していたエスメラルド家と縁戚関

係にあったと推定しているが,その根拠はとく

に示されていない。エスメラルドは, 1481年砂

糖をヤコプに送付している。その際彼はウ ォウ

テルが送った果実をも送った。彼はウォウテル

の雇い人として活動したので、ある。エスメラル

ドは, 1483年にアンプロシオ ・デ ・ガピオに代

わる。彼もまた雇い人であったが,僅かではあ

るが自己の積み荷をも送っている。当時若い奉

公人が自己の資本を投資するのは普通であった

という。20〕このア ンプロシオは1486~87年にわ

れわれの視野から外れる。 1483年にデ ・ガピオ

が登場したことによってエスメラルドの状況が

19) ロムパノレトは, 1490年代に毛織物等の商品をフ•Iレタ ーニュ船でリスボンやマデイラに向けて輸出するアクティヴな商人であうたという。 Mus,oρ. cit., blz., 43, note

17.

20)この点, E. Coornaert, Les. Fram;ais et le com・ 問。ceinternational.a Anvers. Fin du XVe-XVIe siecle, Paris, 196l, .t. 2, p. 2之

-'56ー

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15世紀末プリュツへ市場と世界経済

変化した。 遅くとも1484年以後エスメラルドは,

砂糖と糖蜜をマデイラで購入してヤコブへ,つ

まりプリュッへへ送付することを仕事とするよ

うになった。 1484年末「ミシ zル・デ、・サヴァ

ラガ Michelde Savalaga」号という船で砂糖

が送られたが,これはエスメラルドによって送

られたものであった。こうしてムスは,このこ

ろウォウテルとエスメラルド,それにヤコプの

関係に変化があったとみる。未だアンプロシオ

が働いている時期に彼についての言及がなされ

ず,ヤスプは, ウォウテルとエスメラルドにつ

いてのみ彼が責任を負うべき人物とみ,ここに

ウォウテルとエスメラルドが交易活動において

共同活動に入っていたとするのである。この

1483~84年ころデスパルス商会は莫大な利益を

上げた。ヤコプは,ヘンドリック ・ファン ・ヴ

ィー (Hendrikvan W y),ヘンドリック ・ニ

ーウラント(HendrikNieulant)とともにプリ

ユツへ市場での砂糖輸入の共同会社を作り,イ

ギリスとの交易摩擦が収まったのを利用し て

100キス ト, 後にさらに26キストの砂糖を送り,

ロンドンでこれを捌き莫大な利潤を上げ,プリ

ユツへ取引所近くの「テン ・ニーウカステール

Ten Nieucasteele」という邸宅を購入したので

ある。

このデスパルス商会の第一期末期に国際的交

易を行ってし、 く上での状況の悪化が進んだ。詳

細については次の説で論じるが, 事実上の支配

者として登場してきたハフ。スブルク家に対する

フランドルの反抗が次第に激化してきて,その

結果,戦乱が勃発したのである。 1485年末の反

抗は短く, 1485年6月のブリュッへの降伏によ

って終了したが,この年一隻の船もプ リュッへ

と投錨する ことはなかったという。そして砂糖

の価格が86年秋に崩落した。デスパルス商会は

1486年から 1487年末まで外国商人に砂糖を販

売する ことができなかった。加えて貨幣市場の

「恐慌」があった。 その原因は大公マクシミ リ

アンの通貨政策と彼の莫大な借入による通貨の

払底であったとされている。彼は,通貨の評価

を変え,対フランスとの戦争を遂行するために

借入を行った。ヤコプも流動資本が不足し,や

,むなく「三人の王 DeDrie Koningen」とし、う

名前のついた邸宅を売り払わねばならないほど

ーであった。

この1485年のツヴ ィン水路の閉鎖は砂糖の供

給をストップさせた。ヤ コプはこれを他の商品

の取り引きで補おう とした。その商品は,大青,

明書事,それに羊毛である。 これらの商品を扱う

に当たっては,砂糖とは違い,エスメラルド以

外の商人と提携しなければならなかった。 彼は,

ジョアン ・ロドリゲス (Joa6Rodrigues)と組

んでピカルディーから「ゴノレγェイカ Gorzij-

ca」という船で大青を運んだ。大青にに比べる

と明馨と羊毛の比重は小さかった。ちなみにこ

のときの羊毛はスペイン産羊毛であった。

4.デスパルス家とブリュ .. ,への反抗,その後

〔第二期〕 次に第二期に移る。 この第二期は

1487年末の 「マルティン・ オチョア Martin

Ochoa」号の積み荷の到着とともに始まる。こ

の船は砂糖を積んで、いた。その翌年さらに 2隻

の船が来る。この積み荷は不明である。しかし

この時期ツヴィンの航路は閉じられていた筈で

ある。実際には1492年10月のスリ ュイ スでの講

和まで船舶の航行は出来なかった筈であるが,

何れにしても「マルティン・オチョア」号はス

リュイス(プリュッへの外海への出口〉に到達

l.-tこ。ブリュッへ市の帳簿は1487年にプ リュッ

へまで、の外国船舶の案内についての税を記録し

ているとい う。 この積み荷がどういう経路でプ

リュッへにもたらされたのかは不明である。デ

スパルス家の文書には,「391キストの未精製糖

と25キストの pannela(織物関係の品目か?)

が到着した」とある(blz.56, note 248)が,

ここで重要なのはこの文書に「われらが新社会

のために vorons Compagnia novajと記され

ていることである。 ところでこの「マルティン

y オチ ョア」が到着したころはプリュッ への商

業環境が急激に悪化しつつある時期であった。

この1488年から89年にかけて,プリュッへは大

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公マグシミ リアンに対して全面的に反抗し,そ

の結果外国との結び付きが絶たれる ことになる。

〔プリュッへの反抗〕 ブリュッへの反抗につ

いてムスの論文の記している部分は少ないので,

この反抗の内容とそのプリ ュッへ市場への経済

的影響について,ここで観点を変えて考察して

みたい。21〕この政治的変動(直接的には支配者

の交替〕が衰退しつつあるブリュッへの世界市

場と しての決定的な転落とアントウュルベンの

興隆に大きな影響を及ぼしたことは疑いなく,

さらにまた,大きく時代の移行の様相を照らし

出すからである。

ブリュッへ,より大きくはフランドル,ネー

デノレラントとオーストリア ・ハプスプルク家の

マクシミリアンの関係が直接生じて来るのは,

いうまでもなく 1477年 1月のブルゴーニュ家と

フランス・ヴァロア王家との戦争がブルゴーニ

ュ家の解体に終わり (ナンシーの戦い〉, シャ

ノレル突進公の遺児マリアが大公マクシミリアン

と結婚し(77年 8月〉, ハプスブルク家の勢力

がネーデルラントに及んできたからである。ネ

ーデルラントの貴族層はマリアとその子フィ リ

ップ(78年6月ブリュッへで出生,のちフィリ

ップ端麗公といわれる。 16世紀のカ ール5世の

父〉を君主と仰いだが,マ リアが1482年に没し

たため,フィリップの摂政としてのマクシミリ

アンの事実上の支配がネーデルラントに覆い被

さってくることは免れがたかった。22)

マグシミリアンがネーデルラントの支配者と

21)この政治的状況全般並びに以下典拠を示していない事柄について,前掲拍稿「国際商都アントウェノレベンの興隆Jを参照唱ネーデJレラントの政治的情勢については,F. W.N.Huge出oltz,℃ri血sen herstel’,m Alge-m仰 e Geschiedenz・s der Nederlanden, di., IV,

Utrecht, Antwerpen, Brussel, Gent, Leuven, 1952.

新版の 『ネーデJレラント概説史』では,このプリュツへへの反抗に一節「へントとプリュ yへの新たな反抗Jを害1]¥f、ている。 R Van Uytven,‘Crisis als 田 suur1482

-1494’, m Algem印 eGeschiedenis der Nederlan-

den, 5, Bussum, 1980, biz., 425 26. プリュyへとアントウェIレベン両市場の政治的・経済的状況について,次の文献も参照。 JH. Munro, 'Bruges and the abor-

tive staple in English cloth', in: REPH, 44 (1966).

また, 1488年の騒乱については,次の文献を参照。 R ¥Veil ens, 'La revolte brugeoise de 1488', in: ASEB,

102 (1965).

して登場した際,フランドルと他の諸領邦との

聞には微妙な姿勢の相違があった。マ リアの死

去後聞かれたネーデルラ ント全国会議において

大公がフ ィリップの摂政職を要求したとき,フ

ランドルは即座にこれを拒否したのに対し,他

の諸領邦はこれとは異なった態度を示した。と

りわけ,フランドルの姿勢を左右したのは主要

都市の経済的地位の動揺であった。ヴェッレン

(R. Wellens)は,この時期プ リュツへにおい

ては,イギリス毛織物の輸出攻勢に対する危機

感とそれを許容したゴルゴーニュ諸公,その後

継者であるマクシミリアンに対する憎悪が募っ

ていたと指摘している。マルシャルは, その

「ブリュ ージュからの外国商人の離反 (15・16・

世紀〉」23)と題する論文の中で, 「フィリップ端

麗公の未成年期におけるブリ ュージュの衰退と

アンヴェルスの勃興の直接の原因は,政治上司〉

出来事,とりわけオーストリアのマクシミリア

ン摂政に対する二つの競合都市によって採られ

た全く異なった態度に求められなければならな

い。つまりこのフランドルの都市が後者(マグ

シミリアン一一引用者〉」に対して反発したの

に対し,プラバンドの都市(アントウェノレベン

のこと〉は彼に忠実であり続けたのである」

(p. 29)と。

マルシャルは,この闘争を三つの段階に区別

している。第一期は,マリアの死 (1482年 3月〉

からブリュッへの降伏 (1485年6月〉までの時

期。第二期は,これ以後の比較的平穏な時期,

そして等三期はマクシミリオンのブリュッへ市

内への幽閉(1488年 1月31日〉からトヮ ーノレ

(Tours)の講和 (1489年10月30日〉までの時

期。 これはダムの講和 (1490年11月29日〉で追

認され,さらにスリ ュイ スの降伏 (1492年10月

22)プルゴーニュ家とノ、プスプJレク家,ヨーロッパの政治状況との関わりについては次のものを参照。 C.A.J. Annstrnng, 'The Burgundian Netherlands, 1477

1521', in: D, Hay, ed., The Renaissance 1493-152()

(The New Cambridge Modern History, I), Cam

bridge, 1957.

23) J. Marechal,‘Le depa比 deBruges des marchands

企trangers(XVe et XVIe siecle) ', in: ASEB, 88 (1951).

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15世紀末ブリュツへ市場と世界経済

l:日〉と続く。

マクシミリアンは,はやくも1483年 3月にブ

リュッへにいる外国商人に対し,フランドルを

捨てて, 「フールゴーニュの他の州の何処かにそ

の住まいを移す」ょう求めていたが,彼らの足

並は必ずしもこれに従うものではなく,ハンザ

は全ハンザ都市の同意なしにはブリュッへを放

棄しないと答えた。しかし, 86年に入って事態

は変わる。ハンザは, 次のブラパントの大市

(つまりアントウ ェルベンとベルヘン ・オプ ・

ゾームBergen-op-Zoomの大市のこと〉が終わ

ってもブリュツへには戻らないことを決めたの

である。 6月ブリュッへはマグシミリアンの軍

事力に降伏する。

1488年という年は,ブリュッへ在住の外国商

人のアントウェルベンへの移住の最大のエポッ

クをなす年である。 1486年 6月マクシミリアン

は今度はドイツ国王となってネーデルラントに

来た。彼はフランスに奪われた領土の回復を試

みるために箪をフランスに進めたが,失敗を重

ねた。ネーデノレラントの地はドイツ人雇兵に荒

らされ,フランドノレの都市は新たな抵抗を行う

こととなる。 1488年 1月事態を打開するため全

国議会を準備するべくブリュツへに入ったマク

シミリアンは,逆にブリュッへ市民に技致され

るという前代未聞の事態となった。 この幽閉の

期聞に彼はプリュッへ市に譲歩を重ねて,息子

フィリッフ。についての摂政職の中止とし、う要求

さえ受け入れければならなかった。

マクシミリアンは,解放される( 5月16日〉

や,それまでの約束を反故にした。そしてそれ

から 3年余にわたる フランドル制圧の戦争に乗

り出していったのである。 6月30日,マクシミ

リアンは,プリュッへに留まる全ての外国商人

に対し,住居と取引の場を移すよう命じた。さ

らにこのとき,彼は今度はアントウ ェノレベンの

名を上げて「余が都市アン トウェルベン」 に移

住するこ とを求めた。そうすれば, 「彼らがプ

リュツへにて持てる全ゆる特権を当地(つまり

アントウェルベン〉で享受すること,またその

際にはプラパント全土を無税にて通行し得るこ

と」を約束したのであった。24)こうした政治的

混乱の状況のもとでブリュッへ滞在の外国商人

の多くが,未だ最終的とはいえないものの,ブ

リュッへを去り,アントウェルベンに移らざる

をえなかった。もとより戦乱の終了とともにプ

リュッへに帰還した外国商人も少なくなかった

が, 1490年代のアントウェルベン市場が示した

これまでとは様相を一変させる新たな経済的潮

流に乗った躍進には抗いがたく,これを転機と

して外国商人の多くは次第に,そして最終的に

アントウェルベンにその活動の本拠を移してい

ったのである。

〔デスパルス商会のその後〕 話をデスパルス

商会に戻す。

このプリェッへの反抗に際して,デスパルス

家は大公に反抗したとは言し、難し、とムスはいっ

ている。1490年 7月以前にオリ ーブ池がブリュ

yへに到着した。オリーブ油は免税品であった

が,ヤコフ守はマクシミリアン陣営に税を支払っ

てプリュツへに荷が運ばれた。そしてこの年の

8月に再び,しかし短い最後のブリュツへの反

抗が火を吹いた。そして,ブリュツへは最終的

に11月29日ダムの講和によって降伏したのであ

る。25)

ヤコブはこの苦境の時期,ゼーラントにおい

でさえその事業を続ける ことは出来なかった。

というのは,ゼーラントとの通行が,ヘントや

スリュイスとし、う反抗する都市に握られていた

からである。そこで彼は,ディーリック・ブラ

サール(DiericBrassart)を代理人として雇い,

彼をゼーラ ントのミデルピュノレフとアントウェ

ルベンにおいて活動させた。ポルトガノレからの

輸入品はこのミデルビュルフに到着し,ヤコプ

はこの人物を介して交易活動を行ったのである。

ポルトガルにいたウォウテルはどうしたであ

ろうか。 1488年以後ブリュッへとポルトガノレと

の関係は切れたままであった。彼はブリュッへ

24)この引用の典拠は, F. Prims, Geschiedems van Antweゆen,VII-I, Antwerpen, 1938, blz. 51.

25)この間未だスリュイスとへントは戦っていた。 1492年

の10月のスリュイスの降伏までプリュ yへはなお海路から閉ざされていた(60)。

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の反抗の間事態を改善するために全力を尽くさ

なければならなかったが, 1490年に届いたオリ

ープ油が彼の名義での最後の積み荷であった。

ともかく彼は1492年に故国に帰った。 1490年に

陸揚げされた荷物は10樽のオ リーブ油であった

が,このうち 5樽は従来の「リスボン会社」の

名義で送付されたものであった。あとの 5つは

ルイス ・ガラン ト (LuisGallant)によって送

付されたもので「彼と我の間でのわれらが会社

van onsen compagnie tusschen hem en de mi

のJものであった。こうしてこの年7月新たな

ルイス ・ガラントなる入場が事業に加わって,

ポルトカールに派遣されたのである。ガラントが

ウォウテルに代わり,ここにデスパルス ・ガラ

ントの共同事業が始まった。ムスによる とこれ

は従前のヤコブ ・ウォウテル兄弟のそれと同じ

方法で交易を行うものであった。とはいえ,ヤ

コブとルイスとの関係は同格ではなく ,若いル

イスがヤコプに従属する関係であったという。

ウォウテノレはこの商会の事業からは手をヲ|いた。

そしてガラントは, 1492年にポルトガノレに送ら

れ,砂糖を積んで帰還する。この彼の帰国とと

もに両者の関係は廃棄され,ヤコブはルイスに

代わって新たにテュ ーネ・ルウフ(Theune

Louf)をマデイラに派遣することになる。こう

して第二期は終わった。

その後第三期においてデスパルス商会は先に

見たブリュッへの反抗後の経済的不況に見舞わ

れることになる。 1492, 93, 95,そして96年と

相次ぐマクシミリアンの平価切り下げ,そして

砂糖価格の低迷が続き,さらにデスパルス商会

の商品を購入するプリュツへの食糧商人の数が

1487年に49人いたものが, 1493年には21人に激

、減した。そして支仏い能力を喪失した者が多か

った。さ らにへンリ ー・ テュ ーダー (ヘンリ ー

7世〉に対する王位要求者であるパーキン ・ウ

ォーベック(PerkinWarbeck)をマクシミリ

アンとフィリッフ。端麗公が支持したことでイギ

リスとの経済関係が悪化したこ とがさらにこの

不況を深刻にした〈これは1496年6月に締結さ

れたマグヌス ・イ ンテルクルスヌ MagnusIn-

tercursusによって終わる〉。ムスはこの時期プ

リュツへの毛職物工業の窮状によって市民の多

くがブリ ュッへを去ったといっている。ともあ

れ,こうした状況の中で1496年ころヤコプは再

びウォウデルと手を結んだ。 しかし,砂糖生産

の増大で価格は低迷した。このようにして,こ

のデスパルス商会は1500年のヤコプの死去とと

もにその歴史が閉じられることになった。26〕

5.結びにかえて

15世紀末のプリュッへ市場の国際交易のー側

面一ーポルトガル交易一ーについて, 0. ムス

の論文に依拠して見てきた。 ここて‘見た内容は,

これまでわれわれにとって完全に見過ごされて

きた歴史的事実の復元であった。27)周知のよう

に15世紀後半から16世紀初頭にかけて,ヨーロ

ッパ経済はアフリカ,アメリカ,そしてアジア

の諸地域を組み込みながら,一つのヨ ーロッパ

「世界経済」を形成していく。ところが,1492

年以後のスペインの 「新世界」進出とポルトガ

ルのガマによるアジア交易 (1499年帰還〉の開

始とし、う大事業に限を奪われ過ぎてはいないだ

ろうか。ともあれ, 15世紀半ば(末葉でなく〉

以後のポルトガルのアフリカ西岸南下の樋民活

動は,その背後で当然のことながら西欧市場と

の結びつきを持たざるをえなかった。すでにア

ントウェルベン市場の勃興という観点からこの

問題を論じたことはあるが,それ以前にプリェ

ッへ市場において活発なブリュッへ商人のアク

ティヴな交易活動があったこと,そしてこれが

ヨーロッパ「世界経済」の形成に与かったこと

をデスパルス荷会の交易活動において見てきた

26)ウォクテノレはヤコプの死後もなお,1505-6年とろまで独自の商業活動を展開したことが知られるが,これはデスバルス文書では辿ることができない。

27)例えばこの時代のポルトガノレ,ネーデルラント,そしてドイツなどヨーロッバ各地の経済的関係に詳しい H.ケレンベンツもこのデスバJレス商会に言及することがない。その好例として,次の論文を参照。 H.Kellenbenz, ‘Wirtschaftsgeschichtliche Aspekte der tiberseeト

schen Expansion Portugals’, in: Scripta Mercatu-

, rae, 2 (1970)・ ー

一 官 60 ~

Page 12: 15human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/14/...F. Braudel, Le Temps du Monde( Ciuilisa-tion mate門elle, economie et capitalisme, XVe・ XVIIIe siecle, t. 3), Paris, 1979,の第2寧「ヨーロッ

15世紀末プリュ yへ市場と世界経済

のである。

本稿では,より広〈「世界経済」の形成とい

う論点について積極的な展開をする ζ とは出来 ?

なかったが, これまでともすれば「表退」,な

いし「没落」として論じられることの多かった

15世紀末のブリュッへ市場の国際的商業の一つ

の側面をなお不十分ではあるが,明らかにした。

デスパルス商会は1470年代末から80年代,そし

て90年代にかけて,プリ ュッへ市場の側からポ

ルトガルと直接交易し,香料,砂糖,南欧果実,

オリ ープ油などの植民地物産を調達してプリュ

ッへにもたらし,ここから西欧市場にこれらの

商品を供給した。そしてその見返り商品一一こ

れはボルトカ’ルの植民交易を維持する上で不可

欠のものであったが,一一ーとして毛織物や金物

をプリ ュツへ市場から販売したので、あった。 16

世紀に入るや,ポル トガルのこの交易は,アジ

アの胡叡とヨ ーロ ッパの銅との交換という形で,

今度は交易の舞台としてアン トウェルベンにお

いてブリ ュッへより遥かに大きい規模で,そし

て南ドイツ経済の発展を初めとする新たな要素

の上で結びつくことになる。このよ うな検討か

ら,マデイラ島などでの砂糖キピ栽培と西ヨ ー

ロッパ市場との結びつきによる近代「世界経済」

の形成が15世紀後半の1470年代以降のポルトガ

ルとプリ ュyへ市場との聞の交易によって辿る

ことができるのである。

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